週一で読書

気持ち的には、週に約一冊のペースで読書の感想を書いています。

「シングルスタイル」を考える

はじめに

読売新聞を流し読みしていると、「シングルスタイル」というコーナーが目に留まった。漫画『孤独のグルメ』をテーマに取り扱った内容で、人がひとりで過ごす時間に強くスポットライトを当てた記事に興味を持った。

調べてみると、「シングルスタイル」の編集長がこのコーナーを元にした本を出版していた。『読売新聞「シングルスタイル」編集長は、独身・ひとり暮らしのページを作っています。』というタイトルの本だ。コロナ禍の影響もあり、私自身例年よりもひとりで過ごす時間は倍増した。私も「ひとりでいること」を考える時間が多かったので、手にとって読んでみることにした。

終始押し付けがましいことはなく、緩く他人の生活の一片を覗き込むことができるような雰囲気の本だ。語り口調や言葉の選び方もあってか、実に穏やかな本だと感じた。一方で、内容は切実に考えさせられるものもあり、気づきがある本でもあった。

「ひとりで暮らす」ことを選んだ時、もしくは否応なくそうなってしまった時、明らかに強いストレスを感じるイベントがいくつかある。年末年始はそれを代表する期間で、この本は「シングルスタイル」を採っている人々の、正月の思い思いの過ごし方を紹介するところからスタートする。

結婚

年末年始に帰省すると、シングルの人が「いつ結婚するのか」とか「孫の顔が見たい」とかいう言葉を投げかけられるのは想像に難くないし、現に多くのシングルがそうした言葉をかけられて苦い思いをしているらしい。 私はまだ結婚の選択をするには比較的早い歳だというのと、両親が晩婚なのとで、そうした言葉を直接投げかけられたことはない。しかし、「地元の誰それが結婚して、子供もできた」とか親に言われたこともあるし、「高校のクラスメイトが結婚した」という話題が耳に入ってくることもあるし、いよいよ結婚が自分ごとになってきたのも事実だ。

ひとりの最大の敵は「孤独」だと思う。精神的な意味でも、実際的な意味でも、孤独であることの不都合は少なくない。結婚は「永遠の伴侶」を獲得する(という体である)点において、孤独を解決する最も主流な方法の一つだろう。もちろん、「方法」ではなく結婚そのものを目的としている人も少なくはないだろうが。

逆に言えば、孤独を解決する手段を確立しているか、あるいは孤独に耐えられるのであれば、「孤独」という観点においては結婚する必要がなくなるように見える。結婚はあくまで方法であって、そのシングルにとっては別の方法で「孤独」という課題を解決できているからである。

また、結婚は尊いものであるとして無条件で礼賛されがちだが、必ずしもそうではない。すれ違いからトラブルになることも少なくないし、DVをはじめとした悲しい事件もある。結婚も人間関係の一つである以上面倒なことはあるし、上手くやれる人ばかりではない。

さて、この本を読んで驚いたのは、50代や60代の方々を対象とした婚活サービスが存在しているということだ。今まで私は、結婚はせいぜい30代、遅くても40代にするものだと考えていた。デッドラインがある以上、今の段階で結婚するか否か、切実に悩んでおかなくてはいけないと考えていたからである。今の段階で分母はそれほど多くないらしいことは窺えるが、とはいえ今まで見えていなかった選択肢が浮かんで来ると、デッドラインなど本当は無かったのではないか、という気もしてくる。今現在特に困っていないなら、「なるようになる」程度に気楽に考えていてもいいのかもしれない。

少子高齢化

結婚と関連して必ず言及されるのは出産だろうと思う。思えば「恋人はいつ連れてくるの」「結婚はいつなの」「子供はいつなの」と急かされ続けることになる、そんなに急かされ続きで、人生なんてやってられないな、などと考えてしまう私は卑屈なのか。

少子高齢化」という言葉は、単に「以前と比較すると子が少なくなり、世の中が高齢化している」という状態を示している言葉であって、言葉自体に指向性がある訳ではない、ニュートラルな単語だと思っていた。しかし、「少子高齢化」を嫌悪している人も世の中にはいるそうだ。若くしてシングルである人に対して、「お前みたいな人間が少子高齢化を加速させているんだ」などと悪意を持って使われることもあるらしい。わざわざ友人らと少子高齢化問題について議論する場面などなく、実感を持つことは今の自分には正直難しい。

確かに「少子高齢化」そのものが変化を表す単語であるのは間違いない。少子高齢化に伴って年金のシステムが破綻し始めているとかいう話も聞くし、確かに社会的な観点で少子高齢化に伴う不都合はあるのだろう。マスメディアを代表する読売新聞のいちコンテンツに対して、社会的な責任を問いただしたくなったりする層も一定数いるのかもしれない。お前達のせいで子供を産まない人間が増えているのだ、などと。

話は脱線するが、そもそも人が「シングルである」というのは「結婚していない」状態のみを指し示している訳ではない。恋人がいても、結婚していても、人はシングルになることができるし、シングルになってしまうこともある(この本の中では、パートナーとの死別がその代表例として挙げられていた。自分にはなかった視点だった)。コロナ禍において、否応なしにシングルになる時間があった人も多いはずである。誰にでも訪れる可能性がある「短期的なシングル」状態と、「長期的なシングル」とは状況として別種のものだ。それでいて、そのシングルである状態への向き合い方には共通する部分や、参考になる部分があるはずである。私が偶然「シングルスタイル」というコンテンツを見つけることができたのは運がいいと思うし、こうしたコンテンツは大変ありがたいなと思う。

話を戻したい。自分には結婚に対する欲求がないし、このまま進めば社会の少子高齢化に貢献するひとりになる。 正直、だからどうしたのだ、と思う。少子高齢化になって年金システムが破綻しようと、だから何なのだ、と思う。ろくでもない毎日を少しだけ楽しくすることに必死な私にとって、少子高齢化がどうなろうと、知った事ではないというのが本音だ。

世代間倫理、という言葉がある。今の時代を生きる人間は、次の世代、その次の世代がより良い時代を生きるために努力する責任がある、というような趣旨の言葉と理解している。自分が生き抜く事すらままならない人間が子を育てる方が、子に対して、ひいては次世代に対してよっぽど無責任だと私には感じられる。

これも脱線だが、人が子供を産むときに、「それが野生の本能だから。あるいは性欲がそれをもたらすから」以外の理由で私が納得できる出産を一度も見たことがなかった。友人知人がそうしたと聞けばそれを祝うし、無事出産できてよかったねと思うが、出産そのものの道理は通っていないと思っている。私自身が反出生主義を抱えている、というのがその少なくない要因であると理解しているつもりだし、その人の選択に私が口を出すのも道理が通っていないので、当然黙っておめでとうと口にはするが。

いずれにしても、ここで私が主張したいのは「シングルスタイル」である人を「少子高齢化」という単語で攻撃するのはナンセンスだ、ということだ。シングルである選択をした人にその側面がある人もいるかもしれないが、少子高齢化には別の問題が数多く絡んでいる。そして、多子若齢化に寄与した人間でもシングルになる瞬間は訪れる。今のようなご時世では特に、である。

おわりに

筆者の方は私の母親とほぼ同世代で、その方が考える「シングルスタイル」はとても面白かった。自分が考えるそれと共通する点もそうでない点もあり、ひな祭りをはじめ、自分では思い当たらない視点は新鮮だった。 20代の自分にとってこの先の人生はまだ長い予定だが、とはいえどんな人生であろうとシングルになる/ならざるを得ない瞬間は必ず訪れる。強制的に「シングル」になる時代を若い間に迎えているのは、ある側面では幸運だったかもしれない。

J.S.ミル『自由論』

目次

  1. はじめに
  2. 序論
  3. 思想と討論の自由
  4. 幸福の一要素としての個性について
  5. 個人に対する社会の権力の限界について
  6. 感想
  7. 出典・参考

はじめに

週一どころか気がつけば半年以上間を開けていた。本自体は読んでいたものの、文章を書き続けるというのはいささか体力と精神力が要るなあと感じている。

ゼミのテーマとして『自由論』を扱ったので、それを下敷きにして思考を整理する目的で筆をとる。

J.S.ミルについて

『英領インド史』で知られるジェイムズ・ミルの長男として1806年ロンドンに生まれる。父のもとで早くから学びを深め、父ジェイムズやベンサムらの主宰する政治団体の中で活動をする。20歳の時に深刻なうつ状態に陥った彼は、それを契機として自らの価値観を改める。ここで取り上げる『自由論』の下地にはベンサム功利主義があり、これを修正したものであると言える。

『自由論』について

『自由論』の執筆には大きく2つの契機がある。第一に、出版当時1859年近辺のイギリスの社会情勢だ。当時のイギリスではエリートによる専制政治の機運が高まっており、非エリートである人々の自由が侵害されようとしていたことが挙げられる。第二に、女性の社会的立場の劣悪さが挙げられる。

ミルはエリート専制によって失われる自由がどれほど価値のあるものなのかを検討し、功利主義的観点から社会をよくするためには自由の大切さを述べなくてはならないと考えた。また、妻であり学者でもあるハリエット・テイラーが女性であることを理由に不当に低く評価されていたことにも疑問をもち、ハリエット含む女性の自由という観点からも自由の大切さを述べようとした。

結果として、ミルの代表的な著書には『自由論』の他に『功利主義論』『女性の解放』などが今日では挙げられるが、これらは『自由論』と根を同じくしていると言って差し支えないだろう。

序論

序論でとりわけ注目しなければならない文章は、この本の主題を明示的に示してある以下の文であろうと思う。

本書の主題は~(略)~市民生活における自由、社会の中での自由である。つまり、個人に対して社会が正当に行使してよい権力の性質と限界である。(P11~)

本書の目的は、社会が強制や統率というやり方で個人を扱うときに、用いる手段が法的刑罰という形での物理的な力であれ、世論という形での精神的な強制であれ、その扱いを無条件で決めることのできる原理として、一つの非常に単純な原理を主張することである。その原理とは、誰の行為の自由に対してであれ、個人あるいは集団として干渉する場合、その唯一正当な目的は自己防衛だということである。文明社会のどの成員に対してであれ、本人の意向に反して権力を行使しても正当でありうるのは、他の人々への危害を防止するという目的の場合だけである。(P27~)

ミルは社会において個人が行使できる自由と、その自由に対してどのように制約が加えられるべきかを示そうとしているのである。

思想と討論の自由

この章では、個人の思想と討論の自由の大切さについて記述されている。

第一に、ある意見が沈黙を強いられているとしても、その意見は、もしかすると真理であるかもしれない。これを否定することは、我々自身の無謬性を想定することである。 第二に、沈黙させられている意見は誤っているとしても、真理の一部を含んでいるかもしれないし、そうであるのがごく普通のことである。また、広く受け入れられている意見や支配的な意見は、どんな問題に関する意見であっても、真理の全体であることはまれであり、全くそうでないこともある。したがって、真理の残りの部分を補う可能性を与えるのは、対立する意見の衝突だけである。 第三に、たとえ、受け入れられている意見が真理であるばかりでなく、真理の全体であったとしても、活発で熱心な論争が許されず、実際にも、そのように論争されていなければ、その意見を受け入れているほとんどの人々は、意見の合理的な根拠を理解したり感じ取ったりすることが少しもないまま、偏見の形でその意見を信奉することになるだろう。 そればかりでなく、さらに第四に、主張の意味そのものが失われたり弱まったりして、性格や行為に対する生き生きとした影響力を失う危険が出てくるだろう。競技は単なる形式的な口先だけの言葉になり、良いことのためには役に立たず、むしろ地面を塞ぐだけで、実感のこもった本物の確信が理性や個人的経験から成長していくのを妨げることになる。(P119~)

ここでは大きく4つの主張がなされている。4つに共通する内容は、「仮に誤りが含まれていたとしても、個人の思想・主張は(少なくとも他人に害をなすものでない限りにおいては)自由が保証されなければならない」というものだ。一つ目の主張は、要するに「みんな間違ってることを正しいと思い込んでいて、沈黙させられてる意見が本当は真理じゃん」ということだ。二つ目は「沈黙させられている意見は間違ってるところもあるけど、合ってるところもあるよね」である。三つ目は「確かにみんなが言ってることは合ってるんだけど、なんで沈黙させられている意見が間違ってるのか説明できないとダメじゃね?」だ。四つ目は「みんながそう言ってるから〜ってだけでそれを肯定するんじゃ成長できんわな」である。毒も薬も使いよう、間違っている意見でも価値があるのであって、それを封殺することは個人のみならず社会全体の損失になる、という主張がなされている。

幸福の一要素としての個性について

この章においては、社会の発展、およびそれに伴う個人の幸福という観点から議論がなされていく。

フンボルトによれば、「人間の目的は、理性の永遠不滅の命令によって定められており、漠然とした一過的な欲望によって示されるものではない。その目的とは、人間の諸能力が完全で一貫した全体に向けて、最高度に、また、最も調和的に発展することである。」したがって、「すべての人間が絶えず自らの努力をふりむけ、また、とりわけ同胞に影響を与えることを志している人々が常に注視する」対象となるべきなのは、「自由と境遇の多様性」という、二つの条件が必要である。これら二つが結びついて「個人の活力と豊かな多様性」が生まれ、さらに、このような活力と多様性が合わさって「独創性」となる。(P129)

中国の例は我々に警告を与えている。才能に富み、あれこれの点で英知も備えていたこの国民は、類まれな幸運のおかげで、遥か昔の時代から、とりわけ優れた一連の慣習を持っていた。~(略)~ところが、その彼らが停滞してしまった。~(略)~つまり、国民全員を互いに似たものにし、同じ原則や規則によって国民の思想や行為を全面的に支配するという点で、中国の国民は望外の成功を収めた。そして、その結果がこれ(=停滞)なのである。(P161~)

ミルは自由について、またそれを通して幸福について議論をする際には必ず社会や個人の発展を想定して議論を進めていることに注目したい。特にそれが伺える文章は次に引用するものだろう。

人間の本性は、図面通りに作られ決まり切った仕事を正確にこなすように設定された機械ではない。一本の樹木である。人間の本性は、自らの内部にあって自らを生命あるものにしている諸力の趨勢に従いながら、あらゆる側面で自らを成長させ発展させることを求めているのである。(P133)

担当の教授によるとこの一節が強く引用されるケースは少ないとのことだが、私はこの一文から社会と個人の発展に対するミルの熱量を感じたため、ここで強調したいと思う。

個人に対する社会の権力の限界について

3章までは自由がいかに大切であるかを示すことに説明が割かれていたが、4章ではその自由がどのように制限されるべきかが示されている。

各人の行為は、第一に、相互の利益を侵害するものであってはならない。〜(略)〜第二に、各人は、危害や妨害から社会やその構成員を守るために必要な労苦や犠牲を(何らかの公平な原則によって定められた形で)分担しなければならない。これらの条件を免れようとする人に対しては、社会はなんとしても条件を守るよう矯正して良い。社会がして良いことはこれだけではない。個人の行為は、他人の法的権利までは審判しなくても、他人に辛い思いをさせたり、他人の幸福に対して当然すべき配慮を欠いたりすることがある。こういう行為をする人に対しては、法律上の処罰はよくないとしても、世論(社会的非難)による処罰なら正当だろう。

成年に達している人に対して、その人が選んだ生き方ではその人の利益にならないからそうした生き方をするな、と命じる権限は、一人だろうが何人だろうが誰にもない。その人自身の幸福に最も関心を持つのは、その人本人である。~(略)~だから、人間生活のこの部分こそ、個性の本来的な活躍の場なのである。(P170~)

要するに、「他の人に迷惑をかけない範囲なら、何をやっても何を考えても自由であるべきだ」ということだ。同時に、善意を持ったアドバイスや指南のつもりで与えられた指示であっても、その受け手がそれを是としないのであればその指南する権限はない、とも述べている。ここでも、個性や多様性を擁護できるような主張が述べられている。ただし、判断能力がまだ伴っていない幼い子供や、文化的に明らかに未発達である社会に対して判断能力がある者が介入することをミルは否定しておらず、そうあって然るべきであると考えていたようだ。

4章では宗教に関する自由の議論もなされていたが、現代日本社会において宗教の持つ影響力が弱まっていることを加味してここでは割愛する。

また、5章・応用では具体例や政治の議論なども含めた内容が含まれているが、大きな主張はここまでで完了していると考えるため同様に割愛する。

感想

ミルは社会と個人の発展・成長を期待しており、そのためには自由が必要なのだ、と主張した。権力によって制限される個人の自由の範囲を可能な限り小さくし、各人の個性が発揮される社会を理想とした。

しかし、そもそも社会や個人が発展することそのものは絶対的に正しいと言えるのだろうか?3章において、ミルは発展が停滞した悪い例として中国を挙げている。停滞していることは本当に望ましくないことなのだろうか?停滞と幸福が両立する社会も可能性としてあるのではないか?と考えた。

不自由で幸福な社会を想像した時に、不自由=拘束、あるいは命令が必要になる。過去から現在に至るまでに打ち倒されてきた不自由な社会(独裁政治社会など)は、その命令が不完全なものであったか、あるいは過ちを含んでいたから打ち倒されたと考えられる。すなわち、不自由で幸福な社会を実現するためには無謬性が想定できる神または絶対的なAIのような命令者を必要とすることになる。とはいえ、宗教が弱まり、発展途上の技術しか持たない現代社会においてそのような無謬性が想定できる命令者は実現できそうもない。従って不自由で幸福な社会を現状で実現するのは難しそうだと結論づけた。

自由は必ずしも幸福だけをもたらすわけではない。自由によって私たちは迷い、悩む、という要素は確実に存在している。その点において本当は不自由で幸福な社会は理想として想定しうるものではある。しかし、上の理由の通り自由をベースにした幸福追求のアプローチが現実的であろう、と暫定的には考えられそうだ。出版当時では尖っていたであろうミルの『自由論』も、現代社会を生きる私からしてみれば比較的当然のことを言っているようにも読める。しかしそれは順番が逆であって、時代が自由をより追求してきた結果なのだろうと思った。当然のように思っている「自由」について、改めて向き合い方を考えることになった一冊だった。

出典・参考

終- デイヴィッド・ベネター 『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』

目次

  1. はじめに
  2. 感想
  3. 出典・参考

はじめに

前のブログからかなり時間があいてしまった。新生活のなかリズムが掴みかねている。 前回までのブログでこの本の3章までの内容を読んできた。この本を読んだ今、改めて自分にとっての反出生主義について考えてみようと思う。

mrimtak.hatenablog.com

mrimtak.hatenablog.com

mrimtak.hatenablog.com

感想

まず、この本のざっくりとした構成を振り返ってから感想に移っていこうと思う。 あらかじめ一点注意しておくと、反出生主義は「出生」に対して批判的な立ち位置をとる主義であって、「今生きている人間の即座の自殺」などを推奨、あるいは支持するものではないことに留意されたい。

2章で「存在してしまうことが常に害悪である理由」と題して、非対称性を取り上げて議論を展開した。非対称性を幸福と不幸、及び存在と非存在の間で認め、比較して非存在を支持する、という主張である。 また、3章では「存在してしまうことがどれほど悪いのか」と題して、生の質についての議論を展開した。様々な主張に対し、ポリアンナ効果を理由に想像しているよりも人生の質は悪い、と結論づけた。

さて、ここからは簡単に私の感想を書いていく。

私は、いわゆる哲学書に相当する本を読んだのはこれが初めてだ。比較対象がないので、哲学の議論はこのような形で展開されるのだなぁ、などと思いながら読んでいた。(先回りして読者の反論にさらに反論する文章が多く、特にベネターは大反論を受けたのだろうなと推察したりもした)

私は比較的直感的に、「生まれてきたら苦しむリスクがあるのであれば、生まれない方が子のためだろう」という感覚を抱いていた。2章において、非対称性という観点から体系的に主張として成立させているのは素直に眼から鱗、といった感じだった。自分が考えていたことがかなり定式化されたような気がしてすっきりしたように思う。一方で(特に3章において)ポリアンナ効果をほとんどの議論の土台として使っていて、生の質における議論は果たして十分なのか?という点で特に疑問は残った。 また、「人生の質は自分たちが思っているより悪い」という主張に対して、「その個人が思っている感覚がその個人にとっての人生の質と考えることはできないか?」という疑問もあり、正しく読めていればベネターはこの疑問には回答していないように思う。

また、この本をきっかけにして青土社出版の『現代思想』2019年9月号、吉沢文武『ベネターの反出生主義をどう受け止めるか(P129)』を読んだ。この文章では、特にベネターの第二章における主張である非対称性の議論について述べてある。詳細についてここでは省くが、「誕生害悪説」と「反出生主義」の間には開きがあり、同一ではないということに初めて気がついた。

長い時間をかけて読んできた本だったが、議論の多いテーマの本でもありいい刺激になった。当然といえばそれまでだが、今でも議論の余地があるテーマについてこれからは自分も議論に参加できることに気がついてワクワクした。 この本を読んで自分の主張が大きく読む前から変わる、などということはなかったが、ある程度体系的に一つの主張を学べたのは価値があったと思う。ただ、この手の本はブログで整理するよりもいい方法がある気がする。今後この手の本を扱うかは要検討、という感じだ。

現代思想』の2019年11月ではこの反出生主義が特集されている。改めてそちらにも目を通して、継続して学びを深めていこうと思う。

おわり。

出典・参考

③-2 デイヴィッド・ベネター 『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』

目次

  1. はじめに
  2. 人生の質に関する三つの見解と、三つの見解どれをとっても人生はうまくいかない理由
  3. 快楽説
  4. 欲求充足説
  5. 客観的リスト説
  6. 三つの見解についてのまとめ
  7. リンク
  8. 出典・参考

はじめに

引き続き『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』を読んでいく。この記事では3章中盤の内容に触れていく。

著者のデイヴィッド・ベネターによると、この本の主要な内容は2章と3章とのことで、極めて重要な内容なので丁寧に読んでいきたい。これ以前の内容についての記事を読んでいない方は、そちらを先に読んでいただきたい。また、③-2では③-1の内容を前提に議論するところが大半なので、もし忘れている場合は読み返すことを勧めたい。

mrimtak.hatenablog.com

mrimtak.hatenablog.com

mrimtak.hatenablog.com

また、自分の理解や簡潔な議論のために大幅に本の内容を割愛して説明していくことになると思われる。詳細な内容を知りたい方はご自分で購入して読まれることを推奨する。

人生の質に関する三つの見解と、三つの見解どれをとっても人生はうまくいかない理由

人生の質について、ベネターは以下に示す三つの説を用いて議論を進めている。

  • 快楽説
  • 欲求充足説
  • 客観的リスト説

その上で、以上3つのどの説を用いたとしても人生が悪いものであるという結論を示す。以下詳しく見ていく。

快楽説

快楽説とは、大雑把に解釈すると「プラスとマイナスの精神状態が人生にどの程度あるかに依って、人生がうまくいったりいかなかったりする」という考え方である。 この考え方をするにあたって、マイナスの精神状態、プラスの精神状態、そしてニュートラルな精神状態の3種類の精神状態が識別される必要がある。

さて、この時マイナスの精神状態には以下のようなものが挙げられる。それは、不快、痛み、罪悪感、恥、退屈、ストレス、恐怖、悲しみ、孤独etc...が含まれるものだ。

対して、プラスの精神状態には2通りが考えられる。①マイナスの精神状態から解放されていること(=痛みがおさまる、退屈しなくなることetc...)、②内在的にプラスの精神状態であること、つまり五感を通じた経験や、非感覚的な意識状態(=喜び、愛、興奮etc...)の2つだ。

ニュートラルな精神状態とは、痛みや恐怖、恥などの不在のことだ。これは前述のマイナスの精神状態からの解放とは明確に区別される。(ようやく○○終わった〜、ではなく、そもそも○○がない状態)


さて、以上で快楽説と必要な考え方のベースを示したが、ポリナンナ効果から、(程度は様々あれど)人生のマイナスの精神的状態は無視されがちだという。例えば空腹や喉の渇き、ストレスなど様々なマイナスの要素を私たちは頻繁に経験している。しかし、私たちはこうしたマイナスの心理的状態に置かれている事実を普段から考えることはほとんどない。これはポリアンナ効果によって見落とされているということなのである。加えて、私たちはこの程度のマイナスには慣れており、つまりここには適応も機能しているということだ。

日常生活で不快感を感じていることをほとんど考えないことと、実際に不快感が存在していることが現に同時に起こっているということなのである。

しかし、特に①マイナスの精神状態から解放されていること、に依る幸福やニュートラルな精神状態のために人生を始めるということは当然馬鹿げている。(なぜならこれらは人生にマイナスを内在していることに対して肯定的になる必要があるからだ)また、②人生に含まれている内在的な快楽、これのために人生を始めることも馬鹿げているという。存在することに内在的な快楽があったとしても、決して存在しないことに勝るような純粋な利益を構成することはないからである。

一度生まれてしまったなら内在的な快楽を追求することは良いが、これを目指して人生を始めるには代償は割りに合わない、というのがベネターの主張だ。

欲求充足説

欲求充足説とは、「人生の質は自分の欲求がどのくらい満たされるかに依って価値判断される」というものである。

さて、快楽説での説明はそれだけに留まるものではなく、欲求充足説に基づく価値判断でも関係してくる。私たちが持っている欲求の大半は、「プラスの精神状態」及び「マイナス精神状態の不在」を得ようとする欲求だからだ。

しかし、欲求が満たされていなくてもプラスの精神状態であることはあり得るし、またプラスの精神状態ではないが欲求は満たされていることもあり得る点において、この2つの説は区別される。 欲求充足説において、人生の価値判断の基準は欲求が満たされたか否かであって、心地よい精神状態であるか否かは関係がないのである。 自分の精神状態がプラスであるかマイナスであるかを間違えることはないかもしれないが、自分の欲求が今満たされているかどうかを間違う可能性がある、という点は非常に重要だという。ここまで述べてきたように、ポリアンナ効果を考慮に入れると人間は自分の人生を過大評価してしまう傾向があるのだ。

改めて考えてみると、人生において今持っていないものへの欲求が即座に満たされることはそもそもない。(新しいモデルのiPhoneが欲しい、と思ってから手に入れるまでには確実に時間がかかる)加えて、私たちは若さや健康など、既に持っているものを手放したくないという欲求も持つ。しかしこうした「既に持っているものへの欲求」が満たされ続けることはほとんどない。

単純に、人間はとめどない欲求を持っており、それらすべてが満たされることはない、ということなのかもしれない。

さて、具体的に欲求が満たされているというのがどう分類できるのか、ベネターは2通りで表現している。

  1. 持っている要求を何でも満たしてしまう方法
  2. 満たされるだろう欲求だけを持つ方法

この二つのパターンのうち、前者の方法を通して欲求を満たす場合に人生がうまくいっている、と定式化できた場合について考える。

前者がよりうまくいっている人生だったとしても、現実的には欲求充足の仕方のうち大半は後者の方法で説明される。(私たちの欲求は、私たちの状況の限界に応じて形成されるため) つまり、現実的な欲求充足の方法である後者は空想的な前者の方法より劣っていると考えられる。 しかし、仏教やストア主義者のように欲求を無にしたり変化させることを良いことであると信じている人は少なくない。これは後者が優れていると言っているのではなく、前者の不可能性への応答として合理的だからである、とベネターは主張しているのである。

客観的リスト説

客観的リスト説とは、「人生の質はなんらかの客観的にいいと言われていることや、悪いと言われていることが人生にどのくらいあるかに依って決められている」という考え方だ。

快楽説、欲求充足説に関する議論は同様に客観的リスト説にも当てはまる。その上で、客観的リスト説は、実は完全に客観的なリスト(=文中では宇宙的視点と言い換えられていることもある)に依っているわけではなく、あくまで人間の視点において客観的であるとされているという。

個人の生が他の生と比べてどのくらい幸福かを判断したい場合は、この人間視点の客観的リストをもとに判断することは理にかなっている。しかし、人生そのものがどの程度幸福なのかを判断する場合、このリストはほとんど役に立たない。 ここでベネターは例を挙げている。

例えば、240歳まで生きている人なんて私たちの中には誰もいないわけだから、240歳に届かなかったせいであまり幸福でなかったなんてまあ考えない。けれども誰かが40歳で死んだとすれば(少なくとも、その人の人生の質が比較的良いものであったなら)、死んだことを悲劇的だと思う人はたくさんいる。だが、40歳で死ぬことが悲劇的であるとしても、90歳で死ぬことが悲劇的ではないのは一体どうしてなのだろうか?答えとして考えられるのは、私たちの判断が私たちの環境によって制約されているということだけだろう。

これは先に述べた欲求充足説の最後の議論に似ているかもしれない。良い人生の基準を、そもそも私たちの手の届く範囲でしか設定しなければならないのは何故なのか?つまり、幸福な人生とは初めから私たちの手の届く範囲の外にあることもあるのではないか。

宇宙的視点などという現実的ではない基準で人生を判断するべきではない、という反論に対して、ベネターは「謙虚」という概念を持ち出して説明している。

謙虚な人間は自らの長所に関して正確な認識がある一方で、自分が不十分で至らないものとなるような高次の基準もある、ということを受け入れていると(定義)するのだ。

カッコの中は補足。要するに、「上には上がいるよね」である。この「上」が仮想的な基準であり、ベネターが言うところの宇宙的視点に近いものである、と言うことだ。

三つの見解についてのまとめ

さて、ここまでの三つの説全てに共通して、二つの事柄が区別できる。それは、

  1. 人生は実際にどのぐらい良いものなのか
  2. 人生はどのぐらい良いものだと考えられているか

ここまでの議論の通り、この二者は大きく異なっており、人生の質は自分で考えているのと比較してはるかに悪いものであるとベネターは主張している。 人生の質の決定は良いことと悪いことの量の単純な比較ではないことは議論されてきた通りだが、人生には想像以上に悪いことが含まれている以上、その質には期待できないだろう、と言うのがベネターの結論である。

リンク

①デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』 - 週一で読書

②-1 デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』 - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-2 - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-3 - 週一で読書

③-1 デイヴィッド・ベネター 『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』 - 週一で読書

出典・参考

  • 生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪(すずさわ書店)

以前から書いていたと思いますが、次の内容で『生まれてこなければよかった -存在してしまうことの害悪』の振り返りを締めることにします。3章のまとめと、ここまで読んでこの本に対して感じたことを言語化して終わります。長かった(本音)

5月に読む予定の本

効果的な読書を習慣化するために、はてブで詳細な記録を残していく。なお、簡易な記録については読書メーターにて記録している。

目次

  1. 記録のルール
  2. 2020年5月の目標
  3. 2020年5月に気になっている本
  4. おわりに

記録のルール

4月の読書振り返りで書いた通り条件を緩和するつもりでいる。今後も生活など諸々を鑑みてルールは何度も変わると思われる。

  • この記録は、効果的な読書を習慣化することを目的とする。
  • ここでは「効果的な読書」を「内容、あるいは概要を理解した上で、その書籍に対して自らの意見、認識を言語化可能であること」と定義する。
  • 週に一冊の読了を目標とするが、「効果的な読書」を達成している範囲においてそれ以上の冊数を読むことを良しとする。
  • 難解な書籍に関しては、複数記事に分割して記録しても良いこととする。
  • 毎月初め、当記事のような計画を立てるものとする。計画の範囲において、週に1冊未満の読了となっても良いこととする。
  • 以下に列挙する「読む予定の本」については、必ず読了する。
  • 以下に列挙する「気になっている本」については、余力があった場合に読了する。ただし、この時「効果的な読書」であることを意識する。
  • 漫然と読み流した書籍について、はてブでは扱わず、読書メーターでのみ記録されるものとする。

2020年5月の目標

  • デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』
  • スタンダール赤と黒(上)(下)』

赤と黒(上) (新潮文庫)

赤と黒(上) (新潮文庫)

赤と黒(下) (新潮文庫)

赤と黒(下) (新潮文庫)

先月の本を持ち越している。どちらも手がついている/読了間際なので確実に達成可能と判断。

2020年5月に気になっている本

  • 貫成人『哲学マップ』
  • ウラジーミル・ナブコフ『ロリータ』

哲学マップ (ちくま新書)

哲学マップ (ちくま新書)

  • 作者:貫成人
  • 発売日: 2004/07/06
  • メディア: 新書

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

『哲学マップ』は在籍している大学の教授の著書。今後専門としていく中で入門書として読んでおきたい。

『ロリータ』はいわゆる「ロリコン(=ロリータ・コンプレックス)」の出どころ(後に同名の本が出版されているが。)の本。自分に性的倒錯がある訳ではない(と思っている)が、シンプルに読み物として気になっているという話である。

おわりに

5月は大学の授業が(ようやく)始まり、4月までとは時間の使い方が大きく変わってくることが想像できる。文章量が大幅に減ったり投稿数が露骨に減ったりする可能性はあるが、形が変われど効果的な読書を継続していきたいと思う。 大学で学習した内容についてアウトプットすることもあるかもしれない。使えるものを柔軟に活用していきたいと思う。

4月の読書目標達成度振り返り

簡単にではあるが、4月の読書の振り返りをしていく。 目標の内容は以下のブログの通り。

mrimtak.hatenablog.com

以下振り返り。

  • 星の王子さま』を読み切った。
  • 『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』はほぼ読み切ったが、読了はできず(加えて、まとめ終わっておらず)。
  • 赤と黒』は上巻の3章くらいまでしか読めておらず。
  • 百人一首という感情』を気が向いて読み始めた。

読書というインプットに対してアウトプットとして選択したこのブログだが、一ヶ月目の内容としては概ね満足している。そもそもこのブログの目的が、

  • 読書の内容を定着させる
  • 言語化してアウトプットする能力を身につける
  • 継続することを通して自己肯定感を高める

くらいのもので、これらの点は現状達成できていると思っているからである。

読む予定の本をすべて消化することはできなかったが、これはそもそも当初からの目測の誤りが大きかったためさほど気にしていない。 というのも、想像していたよりも『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』を理解するために膨大な文章量が要求されたからである。3回程度にまとめることができれば、と思っていたが、実情は見ての通りである。

加えて、一つの文章を作るのに現状では4~8時間程度の時間が要求されており、本を読むということよりも文章を作ることに時間を消費することが想像できていなかった。文章を書くこと自体に苦手意識はないとはいえ、慣れない状態でスタートしたので今後スピードが上がっていくことに期待したい。

関連して、「小説に感じたことの言語化」にかかる時間にはある程度上限があるが、「筆者の主張を理解し、その言語化」には比較して倍ちかく時間がかかることにも初めて気がついた。前者に対して後者は、自分の解釈が間違っていないか、自分の言葉が別の意味にならないか、など考えることが多くなるからである。 こうした本を読むときに目標設定で気をつけなくてはいけないこととしてメモしておく。

また、最低限の目標として4月は4冊を掲げていた。これは、「ある程度気合を入れれば達成できそうな数」として設定していたが、5月以降は「やる気がなくても達成できる数」を最低限の目標として設定することにする。 これは『百人一首という感情』を手にとって気がついたことだが、そもそも(幸運なことに)目標を設定せずとも、私の周りには私が読みたい本で溢れている。目標を達成できない自己嫌悪よりも、確実に達成できる数を達成することを優先したい。 月初の記録では、その段階で興味がある本を記録する程度に留めて気楽に継続していこうと思う。


5月は大学の授業も始まり、どのくらいの頻度でブログをアップロードできるかあまり見通しが立っていない。タイトル詐欺にならない程度にのんびり続けられれば、と思っている。5月の予定は今日か明日にでもアップロードする予定。 史上最高に息苦しいゴールデンウィークになると予想はつくが、のんびり自粛を続けていこうと思っている。

おわり。

①最果タヒ『百人一首という感情 』

目次

  1. はじめに
  2. 1.秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露に濡れつつ
  3. 2.春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ 天の香具山
  4. 3.あしひきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む
  5. 4.田子の裏にうち出でて見れば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ
  6. 5.奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき
  7. リンク
  8. 出典・参考

はじめに

私は元々百人一首に対して強い関心を抱いている訳ではなかった。高校(中学だったかもしれない)国語の授業の小テストで暗記したフリをしていた程度に過ぎず、そもそも興味は薄い方だったと思う。

自分が文章を通して何か伝えられる人間になりたい、そして文学や作品に込められた感情を読み取りたい、と思った時に、ふと百人一首の存在を思い出した。そして、本屋を散歩している時に偶然この本を手にとった次第だ(この本を手に取ったから、百人一首の存在を思い出したのだったかもしれない)。

著者の最果タヒ氏の作品である『十代に共感する奴はみんな嘘つき』を以前読んだことがあり、この本への関心も高まったということも強い要因だったかもしれない。

百人一首という感情

百人一首という感情

  • 作者:最果 タヒ
  • 発売日: 2018/11/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

この本は百人一首の紹介と、それに対して最果タヒ氏が詩の言葉で訳し、感じたことを記していくという構成になっている。私のこの文章では、彼女の言葉を読んだ上で、私自身が感じたことを書いていきたいと思う。 真面目に考えれば考えるほど、時代的背景や一般教養に無知なことが足枷になって苦い思いをしたが、今の自分ができる範囲で考察していこうと思う。

1つの記事で五首を目安に20記事程度書いていくつもりだ。不定期更新になるとは思うが、気長に付き合って頂きたい。


1.秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露に濡れつつ

天智天皇の作とされる。天智天皇の即位前の名前は中大兄皇子であり、藤原鎌足とともに蘇我氏を討って大化の改新を成し遂げたことで有名。元々は万葉集の詠み人知らずであったが、口伝で伝えられるうちに天智天皇の作、とされるようになったという。

秋の田んぼのそばにある、仮で作った小屋は、草を粗く編んだだけの簡素なものなので、そこで番をしている私の袖は露に濡れ続けている。

天皇の作なのにこんなに侘しい内容なのか、というのが初見の印象だった。天智天皇自身が舒明(じょめい)天皇の息子であり高い身分にあったと想像するが、そんな人が農作業の歌を詠んだとされていることに驚いた。天皇になる以前、若い頃の経験を歌にしたのだろうか。それとも農民の様子を自分と重ねたのか。そんなことを想像しながら当時の人々はこの歌を伝えたのだろうか、などと想像した。

天智天皇は、政治の敵の粛清を繰り返していたような人物らしい。他人を粛清し続けることの心労は凄まじいものだろう。実際にどんな生活を送っていたのかは分からないが、鬱屈した日常を過ごしていた天智天皇を思うと、夜の露のハッとするような冷たさとのコントラストが鮮やかに感じられる。 痛みに鈍感になる、という「日常」から自分を開放する存在として露が描かれているとすれば、百人一首の一首目としてこんなにも鮮やかな作品なのかと、はじめの印象と全く正反対の印象を抱いている自分にも驚いた。

2.春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山

持統天皇の作とされる。天智天皇の第二皇女で、天武天皇の妻。史上3人目の女性天皇である。

この持統天皇の歌は、奈良にある香具山に白い布が干されているのを見て、「ああ、いつのまにやら夏が来たんだね」と読んだもの。

この歌が詠まれた頃は、

春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山

で、「衣が干してある」、「夏が来たのだ」と断定的な口調が選ばれていたという。現在残っているものは後世になってから変更が加えられたもので、小倉百人一首が編纂された藤原定家の時代にはもう香具山に衣を干すようなことはなくなっていたのかもしれない。 持統天皇の時代と藤原定家の時代にも500年もの開きがある。私たちと同じように藤原定家も500年前に思いを馳せながらこの詩を詠んだとすると、そんなところにも共感できる気がする。

春が終わり夏が来たことを、香具山に干してある白い布を見たことで自覚的になる、という歌である。白い衣というイメージがこの歌を華やかにしているし、何かのきっかけで夏が来たことに気が付くあの感覚、それが今も昔も変わらずにある、ということの嬉しさが感じられる歌でもある気がする。

3.あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

柿本人麿の作。持統天皇の頃の宮廷歌人であり、三十六歌仙のひとり。山部赤人とともに歌聖と呼ばれる。

山鳥の尾のように長いこの秋の夜を、ひとりでわたしは眠るのだなあ。

何より歌のリズムが印象的な作品で、〜の、〜の、〜の、というテンポがどこか楽しげな気がして、口に出して読み上げたくなる。

しかし内容は実に物寂しいもので、秋の夜にひとりで長い長い夜を過ごすという孤独を歌っている。特定の誰かを想っているのかもしれないし、そうではないかもしれない。 今のご時世で好きな人に会えない私たちにとって、会いたい人に会えないという歌は共感が止まない。

物悲しい内容をテンポのいい歌として提出しているところが、どこかおどけた表情なんだけれど、その実寂しさを抱えているような感じがして、人間臭い気がした。

ところで、山鳥とはどんな鳥なのだろうと検索してみると、確かに長い尾を持っていて題材にしたくなる気もする。見てみてほしい。

4.田子の裏に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ

先に名が上がった、山部赤人の作である。奈良時代初期の宮廷歌人であり、身分の低い下級役人だった。

富士山を詠んだ歌だ。今でいう静岡の海岸(田子の浦)に出ると、真っ白な富士山の、高音で雪が降っているのが見えた、というような歌。もちろん富士山の高い峰に降る雪の粒など、海岸からは見えないし、それでもこの歌は「降りつつ」と現在進行形で語っている。

本当は分からないようなことを確信してエモくなることは今でも少なくない気がする。「ああ、地球は回っているんだ」とか、「この宇宙には無数の星があるんだ」とか。こうした大自然の想像はいつでも力強い。

真っ白な富士山に雪が降り続いている様子の美しさも、山部赤人がそれを指差して語りかけてくるような映像も、どちらも浮かぶような気がする。そんな力強い歌に感じた。

5.奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき

猿丸大夫の作とされているが、古今集では読み人知らずとして紹介されている。猿丸大夫三十六歌仙のひとりである。

人里から離れた山で、紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声。聞こえてくると、特に秋は悲しくなる。

鹿の声とはどういうことだろう、と思ったが、これは秋の発情期に雄鹿が雌を求めて発する声のことらしい。鹿が何を考えているのかなど本当は分かりようがないけれど、雌を求めて鳴いている鹿を想像して、その孤独にまで思いを馳せてしまう、そんな秋にわたしは悲しくなってしまうのである。最果タヒ氏は次のように表現している。

見えないところにいる鹿が、孤独であること、愛を求めているということを、知ってしまう、というのは確かに「物悲しい」。それは、鹿そのものではなく、そこまで想像が及んでしまう人の感性が「物悲しい」んだ。

孤独の悲しさを歌っているようでありながら、人の感性そのものの悲しさを歌っている歌と思えばなるほど、確かに歌の奥行きが感じられるような気がした。

リンク

出典・参考