①最果タヒ『百人一首という感情 』
目次
- はじめに
- 1.秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露に濡れつつ
- 2.春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ 天の香具山
- 3.あしひきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む
- 4.田子の裏にうち出でて見れば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ
- 5.奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき
- リンク
- 出典・参考
はじめに
私は元々百人一首に対して強い関心を抱いている訳ではなかった。高校(中学だったかもしれない)国語の授業の小テストで暗記したフリをしていた程度に過ぎず、そもそも興味は薄い方だったと思う。
自分が文章を通して何か伝えられる人間になりたい、そして文学や作品に込められた感情を読み取りたい、と思った時に、ふと百人一首の存在を思い出した。そして、本屋を散歩している時に偶然この本を手にとった次第だ(この本を手に取ったから、百人一首の存在を思い出したのだったかもしれない)。
著者の最果タヒ氏の作品である『十代に共感する奴はみんな嘘つき』を以前読んだことがあり、この本への関心も高まったということも強い要因だったかもしれない。
- 作者:タヒ, 最果
- 発売日: 2019/05/09
- メディア: 文庫
この本は百人一首の紹介と、それに対して最果タヒ氏が詩の言葉で訳し、感じたことを記していくという構成になっている。私のこの文章では、彼女の言葉を読んだ上で、私自身が感じたことを書いていきたいと思う。 真面目に考えれば考えるほど、時代的背景や一般教養に無知なことが足枷になって苦い思いをしたが、今の自分ができる範囲で考察していこうと思う。
1つの記事で五首を目安に20記事程度書いていくつもりだ。不定期更新になるとは思うが、気長に付き合って頂きたい。
1.秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露に濡れつつ
天智天皇の作とされる。天智天皇の即位前の名前は中大兄皇子であり、藤原鎌足とともに蘇我氏を討って大化の改新を成し遂げたことで有名。元々は万葉集の詠み人知らずであったが、口伝で伝えられるうちに天智天皇の作、とされるようになったという。
秋の田んぼのそばにある、仮で作った小屋は、草を粗く編んだだけの簡素なものなので、そこで番をしている私の袖は露に濡れ続けている。
天皇の作なのにこんなに侘しい内容なのか、というのが初見の印象だった。天智天皇自身が舒明(じょめい)天皇の息子であり高い身分にあったと想像するが、そんな人が農作業の歌を詠んだとされていることに驚いた。天皇になる以前、若い頃の経験を歌にしたのだろうか。それとも農民の様子を自分と重ねたのか。そんなことを想像しながら当時の人々はこの歌を伝えたのだろうか、などと想像した。
天智天皇は、政治の敵の粛清を繰り返していたような人物らしい。他人を粛清し続けることの心労は凄まじいものだろう。実際にどんな生活を送っていたのかは分からないが、鬱屈した日常を過ごしていた天智天皇を思うと、夜の露のハッとするような冷たさとのコントラストが鮮やかに感じられる。 痛みに鈍感になる、という「日常」から自分を開放する存在として露が描かれているとすれば、百人一首の一首目としてこんなにも鮮やかな作品なのかと、はじめの印象と全く正反対の印象を抱いている自分にも驚いた。
2.春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山
持統天皇の作とされる。天智天皇の第二皇女で、天武天皇の妻。史上3人目の女性天皇である。
この持統天皇の歌は、奈良にある香具山に白い布が干されているのを見て、「ああ、いつのまにやら夏が来たんだね」と読んだもの。
この歌が詠まれた頃は、
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山
で、「衣が干してある」、「夏が来たのだ」と断定的な口調が選ばれていたという。現在残っているものは後世になってから変更が加えられたもので、小倉百人一首が編纂された藤原定家の時代にはもう香具山に衣を干すようなことはなくなっていたのかもしれない。 持統天皇の時代と藤原定家の時代にも500年もの開きがある。私たちと同じように藤原定家も500年前に思いを馳せながらこの詩を詠んだとすると、そんなところにも共感できる気がする。
春が終わり夏が来たことを、香具山に干してある白い布を見たことで自覚的になる、という歌である。白い衣というイメージがこの歌を華やかにしているし、何かのきっかけで夏が来たことに気が付くあの感覚、それが今も昔も変わらずにある、ということの嬉しさが感じられる歌でもある気がする。
3.あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
柿本人麿の作。持統天皇の頃の宮廷歌人であり、三十六歌仙のひとり。山部赤人とともに歌聖と呼ばれる。
山鳥の尾のように長いこの秋の夜を、ひとりでわたしは眠るのだなあ。
何より歌のリズムが印象的な作品で、〜の、〜の、〜の、というテンポがどこか楽しげな気がして、口に出して読み上げたくなる。
しかし内容は実に物寂しいもので、秋の夜にひとりで長い長い夜を過ごすという孤独を歌っている。特定の誰かを想っているのかもしれないし、そうではないかもしれない。 今のご時世で好きな人に会えない私たちにとって、会いたい人に会えないという歌は共感が止まない。
物悲しい内容をテンポのいい歌として提出しているところが、どこかおどけた表情なんだけれど、その実寂しさを抱えているような感じがして、人間臭い気がした。
ところで、山鳥とはどんな鳥なのだろうと検索してみると、確かに長い尾を持っていて題材にしたくなる気もする。見てみてほしい。
4.田子の裏に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
先に名が上がった、山部赤人の作である。奈良時代初期の宮廷歌人であり、身分の低い下級役人だった。
富士山を詠んだ歌だ。今でいう静岡の海岸(田子の浦)に出ると、真っ白な富士山の、高音で雪が降っているのが見えた、というような歌。もちろん富士山の高い峰に降る雪の粒など、海岸からは見えないし、それでもこの歌は「降りつつ」と現在進行形で語っている。
本当は分からないようなことを確信してエモくなることは今でも少なくない気がする。「ああ、地球は回っているんだ」とか、「この宇宙には無数の星があるんだ」とか。こうした大自然の想像はいつでも力強い。
真っ白な富士山に雪が降り続いている様子の美しさも、山部赤人がそれを指差して語りかけてくるような映像も、どちらも浮かぶような気がする。そんな力強い歌に感じた。
5.奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき
猿丸大夫の作とされているが、古今集では読み人知らずとして紹介されている。猿丸大夫は三十六歌仙のひとりである。
人里から離れた山で、紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声。聞こえてくると、特に秋は悲しくなる。
鹿の声とはどういうことだろう、と思ったが、これは秋の発情期に雄鹿が雌を求めて発する声のことらしい。鹿が何を考えているのかなど本当は分かりようがないけれど、雌を求めて鳴いている鹿を想像して、その孤独にまで思いを馳せてしまう、そんな秋にわたしは悲しくなってしまうのである。最果タヒ氏は次のように表現している。
見えないところにいる鹿が、孤独であること、愛を求めているということを、知ってしまう、というのは確かに「物悲しい」。それは、鹿そのものではなく、そこまで想像が及んでしまう人の感性が「物悲しい」んだ。
孤独の悲しさを歌っているようでありながら、人の感性そのものの悲しさを歌っている歌と思えばなるほど、確かに歌の奥行きが感じられるような気がした。
リンク
出典・参考
- 百人一首という感情(リトルモア)
- ちょっと差がつく百人一首講座 | 小倉山荘