週一で読書

気持ち的には、週に約一冊のペースで読書の感想を書いています。

J.S.ミル『自由論』

目次

  1. はじめに
  2. 序論
  3. 思想と討論の自由
  4. 幸福の一要素としての個性について
  5. 個人に対する社会の権力の限界について
  6. 感想
  7. 出典・参考

はじめに

週一どころか気がつけば半年以上間を開けていた。本自体は読んでいたものの、文章を書き続けるというのはいささか体力と精神力が要るなあと感じている。

ゼミのテーマとして『自由論』を扱ったので、それを下敷きにして思考を整理する目的で筆をとる。

J.S.ミルについて

『英領インド史』で知られるジェイムズ・ミルの長男として1806年ロンドンに生まれる。父のもとで早くから学びを深め、父ジェイムズやベンサムらの主宰する政治団体の中で活動をする。20歳の時に深刻なうつ状態に陥った彼は、それを契機として自らの価値観を改める。ここで取り上げる『自由論』の下地にはベンサム功利主義があり、これを修正したものであると言える。

『自由論』について

『自由論』の執筆には大きく2つの契機がある。第一に、出版当時1859年近辺のイギリスの社会情勢だ。当時のイギリスではエリートによる専制政治の機運が高まっており、非エリートである人々の自由が侵害されようとしていたことが挙げられる。第二に、女性の社会的立場の劣悪さが挙げられる。

ミルはエリート専制によって失われる自由がどれほど価値のあるものなのかを検討し、功利主義的観点から社会をよくするためには自由の大切さを述べなくてはならないと考えた。また、妻であり学者でもあるハリエット・テイラーが女性であることを理由に不当に低く評価されていたことにも疑問をもち、ハリエット含む女性の自由という観点からも自由の大切さを述べようとした。

結果として、ミルの代表的な著書には『自由論』の他に『功利主義論』『女性の解放』などが今日では挙げられるが、これらは『自由論』と根を同じくしていると言って差し支えないだろう。

序論

序論でとりわけ注目しなければならない文章は、この本の主題を明示的に示してある以下の文であろうと思う。

本書の主題は~(略)~市民生活における自由、社会の中での自由である。つまり、個人に対して社会が正当に行使してよい権力の性質と限界である。(P11~)

本書の目的は、社会が強制や統率というやり方で個人を扱うときに、用いる手段が法的刑罰という形での物理的な力であれ、世論という形での精神的な強制であれ、その扱いを無条件で決めることのできる原理として、一つの非常に単純な原理を主張することである。その原理とは、誰の行為の自由に対してであれ、個人あるいは集団として干渉する場合、その唯一正当な目的は自己防衛だということである。文明社会のどの成員に対してであれ、本人の意向に反して権力を行使しても正当でありうるのは、他の人々への危害を防止するという目的の場合だけである。(P27~)

ミルは社会において個人が行使できる自由と、その自由に対してどのように制約が加えられるべきかを示そうとしているのである。

思想と討論の自由

この章では、個人の思想と討論の自由の大切さについて記述されている。

第一に、ある意見が沈黙を強いられているとしても、その意見は、もしかすると真理であるかもしれない。これを否定することは、我々自身の無謬性を想定することである。 第二に、沈黙させられている意見は誤っているとしても、真理の一部を含んでいるかもしれないし、そうであるのがごく普通のことである。また、広く受け入れられている意見や支配的な意見は、どんな問題に関する意見であっても、真理の全体であることはまれであり、全くそうでないこともある。したがって、真理の残りの部分を補う可能性を与えるのは、対立する意見の衝突だけである。 第三に、たとえ、受け入れられている意見が真理であるばかりでなく、真理の全体であったとしても、活発で熱心な論争が許されず、実際にも、そのように論争されていなければ、その意見を受け入れているほとんどの人々は、意見の合理的な根拠を理解したり感じ取ったりすることが少しもないまま、偏見の形でその意見を信奉することになるだろう。 そればかりでなく、さらに第四に、主張の意味そのものが失われたり弱まったりして、性格や行為に対する生き生きとした影響力を失う危険が出てくるだろう。競技は単なる形式的な口先だけの言葉になり、良いことのためには役に立たず、むしろ地面を塞ぐだけで、実感のこもった本物の確信が理性や個人的経験から成長していくのを妨げることになる。(P119~)

ここでは大きく4つの主張がなされている。4つに共通する内容は、「仮に誤りが含まれていたとしても、個人の思想・主張は(少なくとも他人に害をなすものでない限りにおいては)自由が保証されなければならない」というものだ。一つ目の主張は、要するに「みんな間違ってることを正しいと思い込んでいて、沈黙させられてる意見が本当は真理じゃん」ということだ。二つ目は「沈黙させられている意見は間違ってるところもあるけど、合ってるところもあるよね」である。三つ目は「確かにみんなが言ってることは合ってるんだけど、なんで沈黙させられている意見が間違ってるのか説明できないとダメじゃね?」だ。四つ目は「みんながそう言ってるから〜ってだけでそれを肯定するんじゃ成長できんわな」である。毒も薬も使いよう、間違っている意見でも価値があるのであって、それを封殺することは個人のみならず社会全体の損失になる、という主張がなされている。

幸福の一要素としての個性について

この章においては、社会の発展、およびそれに伴う個人の幸福という観点から議論がなされていく。

フンボルトによれば、「人間の目的は、理性の永遠不滅の命令によって定められており、漠然とした一過的な欲望によって示されるものではない。その目的とは、人間の諸能力が完全で一貫した全体に向けて、最高度に、また、最も調和的に発展することである。」したがって、「すべての人間が絶えず自らの努力をふりむけ、また、とりわけ同胞に影響を与えることを志している人々が常に注視する」対象となるべきなのは、「自由と境遇の多様性」という、二つの条件が必要である。これら二つが結びついて「個人の活力と豊かな多様性」が生まれ、さらに、このような活力と多様性が合わさって「独創性」となる。(P129)

中国の例は我々に警告を与えている。才能に富み、あれこれの点で英知も備えていたこの国民は、類まれな幸運のおかげで、遥か昔の時代から、とりわけ優れた一連の慣習を持っていた。~(略)~ところが、その彼らが停滞してしまった。~(略)~つまり、国民全員を互いに似たものにし、同じ原則や規則によって国民の思想や行為を全面的に支配するという点で、中国の国民は望外の成功を収めた。そして、その結果がこれ(=停滞)なのである。(P161~)

ミルは自由について、またそれを通して幸福について議論をする際には必ず社会や個人の発展を想定して議論を進めていることに注目したい。特にそれが伺える文章は次に引用するものだろう。

人間の本性は、図面通りに作られ決まり切った仕事を正確にこなすように設定された機械ではない。一本の樹木である。人間の本性は、自らの内部にあって自らを生命あるものにしている諸力の趨勢に従いながら、あらゆる側面で自らを成長させ発展させることを求めているのである。(P133)

担当の教授によるとこの一節が強く引用されるケースは少ないとのことだが、私はこの一文から社会と個人の発展に対するミルの熱量を感じたため、ここで強調したいと思う。

個人に対する社会の権力の限界について

3章までは自由がいかに大切であるかを示すことに説明が割かれていたが、4章ではその自由がどのように制限されるべきかが示されている。

各人の行為は、第一に、相互の利益を侵害するものであってはならない。〜(略)〜第二に、各人は、危害や妨害から社会やその構成員を守るために必要な労苦や犠牲を(何らかの公平な原則によって定められた形で)分担しなければならない。これらの条件を免れようとする人に対しては、社会はなんとしても条件を守るよう矯正して良い。社会がして良いことはこれだけではない。個人の行為は、他人の法的権利までは審判しなくても、他人に辛い思いをさせたり、他人の幸福に対して当然すべき配慮を欠いたりすることがある。こういう行為をする人に対しては、法律上の処罰はよくないとしても、世論(社会的非難)による処罰なら正当だろう。

成年に達している人に対して、その人が選んだ生き方ではその人の利益にならないからそうした生き方をするな、と命じる権限は、一人だろうが何人だろうが誰にもない。その人自身の幸福に最も関心を持つのは、その人本人である。~(略)~だから、人間生活のこの部分こそ、個性の本来的な活躍の場なのである。(P170~)

要するに、「他の人に迷惑をかけない範囲なら、何をやっても何を考えても自由であるべきだ」ということだ。同時に、善意を持ったアドバイスや指南のつもりで与えられた指示であっても、その受け手がそれを是としないのであればその指南する権限はない、とも述べている。ここでも、個性や多様性を擁護できるような主張が述べられている。ただし、判断能力がまだ伴っていない幼い子供や、文化的に明らかに未発達である社会に対して判断能力がある者が介入することをミルは否定しておらず、そうあって然るべきであると考えていたようだ。

4章では宗教に関する自由の議論もなされていたが、現代日本社会において宗教の持つ影響力が弱まっていることを加味してここでは割愛する。

また、5章・応用では具体例や政治の議論なども含めた内容が含まれているが、大きな主張はここまでで完了していると考えるため同様に割愛する。

感想

ミルは社会と個人の発展・成長を期待しており、そのためには自由が必要なのだ、と主張した。権力によって制限される個人の自由の範囲を可能な限り小さくし、各人の個性が発揮される社会を理想とした。

しかし、そもそも社会や個人が発展することそのものは絶対的に正しいと言えるのだろうか?3章において、ミルは発展が停滞した悪い例として中国を挙げている。停滞していることは本当に望ましくないことなのだろうか?停滞と幸福が両立する社会も可能性としてあるのではないか?と考えた。

不自由で幸福な社会を想像した時に、不自由=拘束、あるいは命令が必要になる。過去から現在に至るまでに打ち倒されてきた不自由な社会(独裁政治社会など)は、その命令が不完全なものであったか、あるいは過ちを含んでいたから打ち倒されたと考えられる。すなわち、不自由で幸福な社会を実現するためには無謬性が想定できる神または絶対的なAIのような命令者を必要とすることになる。とはいえ、宗教が弱まり、発展途上の技術しか持たない現代社会においてそのような無謬性が想定できる命令者は実現できそうもない。従って不自由で幸福な社会を現状で実現するのは難しそうだと結論づけた。

自由は必ずしも幸福だけをもたらすわけではない。自由によって私たちは迷い、悩む、という要素は確実に存在している。その点において本当は不自由で幸福な社会は理想として想定しうるものではある。しかし、上の理由の通り自由をベースにした幸福追求のアプローチが現実的であろう、と暫定的には考えられそうだ。出版当時では尖っていたであろうミルの『自由論』も、現代社会を生きる私からしてみれば比較的当然のことを言っているようにも読める。しかしそれは順番が逆であって、時代が自由をより追求してきた結果なのだろうと思った。当然のように思っている「自由」について、改めて向き合い方を考えることになった一冊だった。

出典・参考