③-1 デイヴィッド・ベネター 『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』
目次
はじめに
引き続き『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』を読んでいく。この記事では3章前半の内容に触れていく。
著者のデイヴィッド・ベネターによると、この本の主要な内容は2章と3章とのことで、極めて重要な内容なので丁寧に読んでいきたい。2章以前の内容についての記事を読んでいない方は、そちらを先に読んでいただきたい。
また、自分の理解や簡潔な議論のために大幅に本の内容を割愛して説明していくことになると思われる。詳細な内容を知りたい方はご自分で購入して読まれることを推奨する。
- 作者:ベネター,デイヴィッド
- 発売日: 2017/11/01
- メディア: 単行本
存在してしまうことがどれほど悪いのか
2章の説明で「存在してしまうことが常に害悪である」という結論を導いたが、「存在してしまうことがどれほど害悪なのか」について3章で説明していく。(③-1では、その前提を整理する)
「存在してしまうことがどれほど害悪なのか」という問いに対する回答は、「(存在するという)その結果生じている人生がどれほど悪いのか」による。すべての人が存在することで害悪を被っているとしても、そのすべての人生の害悪の度合いは同じにはならない。 しかし、ベネターの主張は「ベストな人生であってもそれは非常に悪いもので、それ故存在させられることはどんな場合でも相当な害悪だ」というものだ。 (ただし、ベネターは「すべての人生が悪いからと言って人生は続けるに値しない」という主張は持っていない。「人生は思っているよりも悪く、どんな人生も多くの害悪を含んでいる」ということの主張に止まるものであることを記してある。)
人生の良さと悪さの差が人生の質にはならない理由
②-2の最後に述べたとおり、人生の質は、人生のプラス面からマイナス面を引いただけで単純に判断することはできない。何よりもまず考慮するべきは、「良いことと悪いことがどのように分布しているか」ということだという。 このことをベネターは4つの要素から説明する。それは以下の通りである。
- 順番
- 強度
- 人生の長さ
- 閾値
順番
例えば、「人生の前半にその人生の良いことがすべて生じ、人生の後半に悪いことが立て続けに起こる人生」は、「良いことと悪いことがバランスよく起こる人生」よりも遥かに悪いだろう。 同様に、「徐々に何かを達成したり満足したりする方向に向かう人生」は、「人生の初めは晴れやかに始まるが、次第に悪くなっていく人生」よりも好ましいだろう。
強度
「異常なほどに強力な快楽が散りばめられているがその快楽はほとんど滅多に生じず持続もしない人生」は、快楽の総量は同じとき「比較的強くはない快楽が生涯を通じて頻繁に散りばめられている人生」よりも悪いだろう。 しかし、快楽や他の良いことがあまりにも広く薄く散りばめられてしまうこともある。それは良くも悪くもないニュートラルな状態が続く人生との区別が難しく、そうした人生はそれなりに目立った「贅沢な状態」が少し起こる人生よりも悪い、と言えるだろう。
人生の長さ
人生の長さは、良いことと悪いことの量と相互に動的に影響し合う。「ほんの少しの良いことしかない長い人生」は、大量の悪いことで特徴付けられるだろう。(その悪いことが"退屈"ということもある) また、良いことと悪いことに関係なく「同程度にニュートラルな長い人生と短い人生」についても、良し悪しの評価がつくことだろう。(これは人によって評価が分かれるものとしている)
閾値
人生がある一定の悪さの閾値を一度でも超えるとすれば(その悪さの量と分布を考慮に入れる必要があるが)、良いことがどれほどあろうともその悪さを打ち消すことは決してできないとベネターは主張する。 ベネターはこれをドナルド・コワートの例を持ち出して説明している。
~この価値判断こそ、ドナルド(「ダックス」)・コワートが自らの人生に -少なくとも、ガス爆発のせいで身体の三分の二が吹き飛んだ後の人生に- 下したものなのだ。彼は極度の苦痛を伴う救命治療を拒絶したが、それにもかかわらず医者は、彼の意向を無視して治療を結構したのである。その結果、彼は一命を取り止め、またかなりの成功を収めたことで十分なQOLを再び手に入れた。けれども、ヤケドを負ってから手に入れた良いことなんてどれも無理やり受けた数々の治療に耐え抜くというつらさにとって代わるほど価値のあるものではないと、コワートは主張し続けたのである。)
これまでの考察から、人生がどれほど悪いかを判断することは単なる加算や減算では表現できないことが明らかになった。
何故人生の質の自己判断は信頼できないのか
総合的に考えて自分の人生は悪いものだ、という結論に首肯する人はほとんどいないし、実際ほとんどの人が自分の人生は順調に進んでいるものと考えている。しかし、こうした自己判断が人生の質に関する指標となることを疑うべき理由があるという。 人間心理には人生の質に関して好意的に認識するようなバイアスがあり、このバイアスから価値判断が説明されるというのだ。
- ポリアンナ原理
- 適応・順応・習慣化
- 他人の幸福との比較
ポリアンナ原理
最も一般的で、かつ最も影響力があると言われているのがこのポリアンナ原理であり、楽観主義へ向かう傾向のことである。この原理は様々な形で現れる。
例えば、悪いことよりも好いことを思い出したがるという傾向がある。例えば、自分の人生を通してどんな出来事があったのかを思い出すように言われると、数多くの被験者が悪いことよりも好いことを挙げる。このように選り好みをしてしまうことで、自分の人生に対して誤った判断をしてしまうということである。
バイアスは自分の過去に関する価値判断だけではなく、未来に関する予測と期待にもかかる。幸福の自己判断は、自分を幸福だと思う方に著しく歪められている。(つまり期待してしまうということ) 人々を「とても不幸に」するかもしれないと考えられてしまうような類の出来事があったとしても、実際にとても不幸だと思ってしまうのは、非常に僅かな人々だけだということはデータから明らかなのである。
適応・順応・習慣化
何か悪いことが起こったときに、まずそこには主観的な不満感が生まれる。しかし、その状況に適応しようとしたり、自分の期待を順応させようとしたりする傾向がある。順応の程度には個人差があるが、適応が生じるということに関して基本的には意見が一致している。 適応の結果として幸福の主観的感覚が変わり、以前とは異なるレベル(低いレベル)でも幸福感を感じるようになる、ということだ。
他人の幸福との比較
自分の人生がどれくらい幸福かの自己判断を決定づけるのは、自分の人生そのものよりも他人の人生と比較してどのくらい幸福かに依るというのだ。従って、幸福に関する自己判断は絶対的ではなく相対的なものだといえる。 これは、全員が同様に苦痛を感じているのであれば、それは人々にとって自身の幸福の判断には響かない、ということだ。(実際にはそこには苦痛があるというのに!)これを見落とすことで、幸福に関して正しく判断ができないということに繋がる。
以上に挙げた三つの心理学的現象のうち、必ず人生をプラス方向に価値判断させているのはポリアンナ効果だけだ。幸福に対しても我々は適応するし、自分より幸福な人と比較して不幸に感じてしまうこともある。 しかし、どちらにしても我々はポリアンナ効果の影響下にある状態から判断をスタートしてしまう。適応にしても比較にしても、いずれも楽観的なバイアスがかかっていることを意識しなくてはならない。
適応や比較は条件が揃えばポリアンナ効果を強める。対して、条件が悪ければポリアンナ効果を弱めはするものの、これを完全に無効化することはないのである。 こうした心理学的現象は、進化論的な視点からは驚くべきことではなく、自殺を防ぎ、子作りを促進するよう促すものとして当然のように感じられる。
かくして、私たちは楽観的なバイアスを備えており、ペシミズムは自然には選択されないということが明らかになった。
次の記事では、人生の質に関する3つの見解と、そのどれを選択しても人生は上手くいかないことを示していく。
リンク
①デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』 - 週一で読書
②-1 デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』 - 週一で読書
デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-2 - 週一で読書
デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-3 - 週一で読書
出典・参考
- 生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪(すずさわ書店)