週一で読書

気持ち的には、週に約一冊のペースで読書の感想を書いています。

②-3 デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』

目次

  1. はじめに
  2. 別の非対称性
  3. 生まれてきたことを悔いない事に逆らって
  4. リンク
  5. 出典・参考

はじめに

引き続き『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』を読んでいく。この記事では2章後半の内容に触れていく。

著者のデイヴィッド・ベネターによると、この本の主要な内容は2章と3章とのことで、極めて重要な内容なので丁寧に読んでいきたい。2章でもかなり入り組んだ内容になるので、前中後編の3編に分けた。前編、中編を読んでいない方は、そちらを先に読んでいただきたい。

mrimtak.hatenablog.com

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また、自分の理解や簡潔な議論のために大幅に本の内容を割愛して説明していくことになると思われる。詳細な内容を知りたい方はご自分で購入して読まれることを推奨する。

別の非対称性

②-2までで、存在してしまうことが害悪だというために、快楽と苦痛は非対称的であるということを説明してきた。 この節では、存在してしまうことが常に深刻な害悪であるという考えが、子作りに関して議論を拡張するということである。

関連して、クリストフ・フェーイゲとシーナ・シフリンの議論とベネターの議論との類似点を挙げている。詳細については省かせてもらうが、概要のみ説明する。

シフリンは、利益と害悪について尺度を用いて計れるようなものではなく、それぞれプラスとマイナスの絶対的な状態として理解している。その上で、彼女も利益と害悪についての非対称性に訴えている。(ただしこの非対称性はベネターのものとは異なる)

ある人にとってのより大きな害悪を防ぐために、その人物により小さな害悪を与える事には問題はなく、むしろそうすべきという。(個人的にはこの話は直前の尺度の議論を前提としたときに矛盾しているように感じるが、内容には概ね同意する)

例えば、その人の命を助けるためであれば、意識を失っている人の腕を(同意なしに)折る、ということは認められ得る(これは「救助のケース」である)。 救助のケースとして我々日本人にとってより身近な例として、以下のようなものがあるかもしれない。 駅で倒れている女性を救うために、AEDを使う必要がある。AEDのパッドを装着するために、女性の服を裁断するということは認められ得る。(私の記憶が確かなら、AEDの装置にはハサミが入っている)

以上のようなものである。 反対に、より大きな利益をもたらすために害悪を負わせることは悪い事になる。

例えば、より大きな何らかの知識や能力を得るためにその人の腕を折るということは一般に非難されるであろう。(よくある漫画の悪役を連想すると良いかもしれない。「どうしてそんなことのために○○したんだ…!」)

子供を産むという行為は、この議論においては後者にあたり、行われるべきではないという主張である。


フェーイゲの議論は、よりベネターの議論に近いという。彼は「反失望主義〔antifrustrationism〕」と呼称されるものを擁護して詳述している。 この見解に基づくと、自分の選好が充足した場合も、選好が全く存在しない場合も等しく良い。それ故、悪いのは選好が充足しない場合のみである、という。 言い換えると、選好が充足するケースはそもそも願望が0の場合よりも優れている訳ではない。重要なのは失望の回避であるということである。 この半失望主義は、人を生み出さないほうがいいということを含意している。

生まれてきたことを悔いないことに逆らって

今まで全く誰一人として愛したことがないよりも、愛し失ったことがあるほうが良いのだと(アレフレッド・テスニンを持ってきて)考える人がいるが、存在についても愛と同様の筋で議論しようとする人がいる。 これに対して、ベネターは愛することと存在してしまうことは決定的に違う、として退ける。誰一人として愛していない人物は愛することなしに存在しているのであって、愛することを奪われている。つまり「悪い」。反対に、絶対に存在してしまわない人物は何者も奪われていない。ベネターの論であれば、それは「悪くはない」。

直感的に「存在することは害悪である」という結論に対して嫌悪感を抱く人は多いだろう。自分が人生を楽しんでいることを論拠に存在を肯定する人も少なくないはずだ。しかしそれを間違っているとベネターはいう。仮にその人が存在しなかったとしても、その人生を送る楽しみを取り逃す人などおらず、よって楽しみがないことは悪いことではないからだ。 逆に、存在を苦しむ人物のことを考えてみる。この場合、存在してしまったことを悔いるのは当然だ。しかしその場合、その人が存在しなかったのなら、その人が送る生で苦しむ存在者は誰一人としていない。

また別の反論についても言及されている。苦痛に苛まされているかどうかについて間違えることがないように、生まれてきてよかったかどうか、についても間違えるはずがない、という反論である。 「生まれてきてよかった」という主張が「私が存在するようになったことは、そうでなかったよりも良い」と等しいならば、存在は非存在よりも良いかどうかについて人は間違えるはずがない。しかし問題は、この二つの命題は異なる、という点にある。 「生まれてきたことを現によかったと思っていることを人は間違えない」としても、「存在してしまったことがそうでなかったより良いかどうかについて、人は間違えるはずがない」ということではない。誰かが人生のある一点において自らの存在を喜んでいて、その後に想像を絶する苦痛に身をおかれ、自らの存在を悔いたような状態を考えてみる。このケースは全体で見てみると、「存在してよかった」かつ「存在しないほうがよかったとなるが、本来それ両方であるというのはおかしい。(しかしそうとしか表現できなくなってしまう)

ここに関連して、人生は人が考えているよりもはるかに悪いのである、ということをベネターは3章で説明するのである。

リンク

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』① - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-1 - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-2 - 週一で読書

出典・参考

  • 生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪(すずさわ書店)

はじめに公開した②-2をスマートフォンから閲覧し、文字の暴力すぎて仕方なく記事を分割しました。多少は改善されていれば嬉しいです。よければ引き続きご指摘等いただけると幸いです。

さて、ここまで読んできてこの本については2章と3章を纏めるに止めようと考えています。

  • 2,3章で概要を把握するには十分と判断した為
  • 「自分の理解を助ける」という目的を前提にしたときに、その他の章の分も書くのはコスパが悪いと考える為
  • 小説と違って、この手の本は自分の意見を介入させた記事を書くのが難しい(要約に止まってしまいがち)為

などの理由からです。3章もおそらく3本ほどの記事になるかと思いますが、その後に改めて自分が感じたことをまとめて終わりにしようと考えています。長くなりますがお付き合いいただければ幸いです。