週一で読書

気持ち的には、週に約一冊のペースで読書の感想を書いています。

①デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』

目次

  1. はじめに
  2. 反出生主義とは
  3. 読む前から私が抱いている反出生主義的思想
  4. リンク
  5. 出典・参考

はじめに

この記事は何本か書く記事の1本目です。この記事ではタイトルの本の内容に直接触れることはほとんど書いてありませんので、あらかじめご了承ください。


私は、そもそもこの本を読む以前から(単語としては知らなかったが)反出生主義的思想を持っていた。そこで自分の論を補強するために(あるいはその論が覆されるべきである、という反論を持つために)、反出生主義の人間の著書としてこの本を手に取った次第である。

私にとってこの本は難解で、読む+考察に時間をかけたいので何章かに分けようと思っている。(現状、7章まであるうちの3章途中までしか読めていない) この記事では、手始めに①反出生主義とは何なのか、②読む前に反出生主義に対して自分が持っていた見解、③この本の各章の考察へのリンク 以上を示していこうと思う。

反出生主義とは

反出生主義とは、文字通り「子供を産む」という行為一般について否定的な意見を持つということである。反出生主義的見解を持つ哲学者として、ショーペンハウアーやエミール・シオラン、そして今回取り上げる『生まれてこないほうがよかった』著者であるデイヴィッド・ベネター(以下著者と表記)らが挙げられる。

他の思想一般と同じように、反出生主義も一枚岩ではない。その思想に到達する道筋は数多くあり、典型的な例として「赤ん坊が嫌いである」とか、「結婚しても、子供を持つより2人で生活したほうが楽しい」とか、ごく身近な発想もある種の反出生主義と呼び得るものである。

ベネター曰く、「存在してしまうことが常に深刻な害悪であるという見解は、私たちは子どもを持つべきではないということを示唆している」ということである。この本では、存在してしまうことが常に害悪であることを示し、子供を作る(道徳的な)義務はなく、条件付きで、人類の段階的絶滅を考慮に入れるべきなのである、という主張を示す。

読む前に私が抱いている反出生主義的思想

先に述べたとおり、私はいま反出生主義的思想のもとにいる。そのスタートラインは以下の通りである。

私は自ら望んで生まれてきた訳ではないし、漠然とした不幸感を日々感じたまま生きているものである。

ちょっとした不幸なことや、よくないことが起こった時に「死んでしまいたい」「消えてしまいたい」のようなことを考えたことがある人は少数ではないだろう。 私はこうしたことを慢性的に考えるような生活をしていた。「死んでしまいたい」「消えてしまいたい」と考える時に、ただでさえ(少なくともそう考える程度には)マイナスな状態にある中で、「自殺」というさらにマイナスな行為によってそれを解決しようとするのはあまりにも馬鹿げていないか、それなら「生まれてこないほうが幸福である」と言えるのではないか、というのがこの発想のスタートラインと言える。

確かに日々生活する中で、友人と話をしたり、美味しいご飯を食べたり、刹那的に幸福感を得られる瞬間があることは否定しない。しかし幸福感を感じることができる瞬間は大抵「ハレ」の瞬間であり、「ケ」の日常において慢性的に不幸感を感じている自分の現状を鑑みた時に、「生まれてこないほうがよかった」という発想に至るのである。

人生は不幸なものである、だから私は少しでもこの人生がマシなものに(=より幸福なものに)なるように努力しなくてはならない、と考えてはいるが、それはまた別の話。

子供は、一個人であり、他人である。親の子供を作るという行為の責任を、実際に履行するのは子供である。

先の主張と地続きの発想ではあるが、私は自ら生まれたい、と考えて生まれてきた訳ではない。両親の性行為の結果として生まれてきたに過ぎず、そこに私の選択が介入する余地はない。 生まれてきてしまった以上、私は自らの人生において選択を繰り返す必要性に迫られる。この必要性は私の責任に依るものではないはずである。両親が子供を作るという選択をしなければ、私にこの責任が発生するはずがない。

子供が生まれてシステム的に最も幸福なのは、国家ではないか。

そもそも国家というシステムが、国民が出産を繰り返す前提で成り立っているのではないかと感じている。日本を例に考えた時に、「超高齢化社会化」が問題視されている。少子高齢化が叫ばれ、年金のシステムも悲観視され始めている。

感情論では、子供が生まれて嬉しいのは親や祖父母、家族や親戚だろう、と考えられるかもしれない。しかし、国というシステムで考えるとこれは次世代、次々世代と国が存続していくことを前提に成り立っているように思う。この前提では、国家が子供を産むことを推奨するのも当然であり、様々な施策が打たれるのもまた当然なのである。

そうした社会の中で、あたかも子供が生まれることは幸福なことなのであるという刷り込み(あえてそう表現するが)に支配されている人間は少なくないはずではないか。

残念ながら私は国家の成り立ちや仕組みについては全くの無知であり、この論点が必ずしも正しいかどうかは不明であるが、少なくとも現段階ではこのように考えているということだ。

仮に自分が子供を作った時に、自分はその子供に対して子供を作った理由を自分が納得できる言葉で説明できない。

最後は感情論になってしまうが、題の通りである。もし自分に子供ができて「どうして僕/私を産んだの?(産んでくれなければよかったのに)」などと質問された時に、それに対して誠実な回答を用意できない、と考えた。

この子を不幸にしたい、と思って子供を産む親は基本的にはいないはずだ。誰もがこの子は幸福になってほしい、と思いながら子供を産んでいる。 この時に生まれてきた子供が身体障碍者になってしまったり、事故にあってしまったり、そうした要因を考える人間がどれほどいるのかを私は知らない。本当に子供のことを考えているのであれば、その子供を本当に産む必要があるのかを考えるべきなのではないか、と思うということなのである。

ここまで読んで頂いたらご理解いただけると思うが、私は「生まれてきたかもしれない子供のことを考えるのであれば、子供を産まない選択をすることが一番子供のためである」と考えている、ということなのである。 発想のスタートラインとしてはごく個人的な内容であるから、この段階で「これが反出生主義です」という顔をするつもりは一切なくあくまで発想のスタートがこれだ、ということだ(主義というからには全人類に対してapplyできる議論に終着したい)。

リンク

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-1 - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-2 - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-3 - 週一で読書

出典・参考