週一で読書

気持ち的には、週に約一冊のペースで読書の感想を書いています。

②-2 デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』

目次

  1. はじめに
  2. 何故存在してしまうことは常に害悪であるのか
  3. 快楽と苦痛の非対称性
  4. 存在することと決して存在しないことを比較する
  5. リンク
  6. 出典・参考

はじめに

引き続き『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』を読んでいく。

著者のデイヴィッド・ベネターによると、この本の主要な内容は2章と3章とのことで、極めて重要な内容なので丁寧に読んでいきたい。2章でもかなり入り組んだ内容になるので、前中後編の3編に分けた。前編を読んでいない方は、そちらを先に読んでいただきたい。

mrimtak.hatenablog.com

また、自分の理解や簡潔な議論のために大幅に本の内容を割愛して説明していくことになると思われる。詳細な内容を知りたい方はご自分で購入して読まれることを推奨する。

何故存在してしまうことは常に害悪であるのか

まだ存在していない人についての議論の共通点として、「存在させられた人間には利益もある」という主張がある。この主張が間違っていることを示し、存在が常に害悪であることを示していく。 ただし、何一つ悪いことが起こらないような、仮想的な人生の場合には当てはまらない。何か一つでも悪いことが起こる人生は、常に害悪であると帰結する。(骨折とか風邪をひくとか、一般的に言われる「悪いこと」全般)

まずベネターは「楽観主義者の主張」として、「悪いことだけではなく良いことも人生には起こる。快楽が害悪を超えている場合においては人生は生きるに値する(生まれるに値する)のではないか」という主張に対して反論する。

快楽と苦痛の非対称性

害悪と利益には決定的な違いがある。その違いにおいて存在が非存在に優る点はなく、存在が不利である。

前提として、以下の通りである。

  1. 苦痛が存在しているのは悪い。
  2. 快楽が存在しているのは良い。
  3. 苦痛が存在していないことは良い。それは、その良さを教授している人がいなくても良い。
  4. 快楽が存在していないことは、こうした不在がその人にとって剥奪を意味する人がいない場合に限り、悪くない。

1と2について、これは快楽と苦痛が存在していないことには当てはまらない。(両者が存在している議論であるから)

3と4の非対称性を擁護する立場だと、最終的に存在が害悪である、という立場を擁護する主張に帰結する、ということである(つまりこれをベースに議論していくよ、ということ)。 ここで、3と4の間の非対称性から4つの例を取り上げる。


①「苦痛を被る人々を存在させない義務」があるのだと私たちが考えるのは、「そうした苦痛が存在していること」は悪いことだろうし「その苦痛が存在していないこと」は良いことだからなのだ。

これに対して、幸福な人々の喜びはその人たちにとって良いだろうが、「そうした喜びが存在していなくてもその人たちにとって悪いわけではない」という理由で、その人々を存在させる義務は全くないと考えるのである。


②子供を持つことが、その子供を益する為であれば、多くの人にとって子供を持つことに道徳的な意味があったことだろう。

これに対して、苦痛を被るかもしれないまだ存在していない子どもの幸福に対する関心は、子供を持たないことを選択する健全な根拠になる。「喜びが存在していないこと」が悪いことだったら、子供自身のために子供を持つことは否定できない。 そして、誰かにとって「苦痛が存在していないこと」が良いことではなかったとしても、「苦痛が存在していないことが良いことだ」が真でなければ、「苦痛を被る子どもを存在させることを避ける」が良いことであるとは言えなかっただろう


③人々を存在させることと同じく人々を存在させないことは悔やまれ得る。しかし私たちの判断次第で存在する人のためにとなると、人を存在させることだけが悔やまれ得る。つまり、「存在していない人が快楽を獲得できないこと」を悔いることはできない。

子供を持っていないことによる悔恨は、子供のための悔恨ではなく、「自分の出産と養育の機会損失」への悲しみである。誰かを存在させなかったことを嘆き悲しまないのは、快楽が存在していないことが悪いことではないからである。


④「(遠く離れた)苦痛」と「地球、または全世界の中で人類が住んでいない部分」についての非対称的な判断を考える。 苦痛に彩られた人生を生きている異国の住民のことを思うと確かに悲しくなる。しかし、人の存在しない島のことを耳にしても、もし存在していたらその島に住んでいたであろう幸福な人々のことを思って同じように悲しくなったりはしない。同様に、そのような可能的な存在者が人生を楽しめないことを悲しく感じる人は誰もいない。

火星に住んでいない人のことを思って悲しくなる人はいないが、もしも火星に感覚のある生命がいて、その火星人が苦痛に苛まされていると知ったら、火星人のために悲しく感じるかもしれない。 ここでの論点は、私たちは存在があり得た人の苦痛を残念に思うが、その人々の快楽が存在しないことを残念に思いはしないということ。


(3)と(4)の間の非対称性から、4種類の異なる非対称性を示した。これら4つの非対称性が受け入れられるならば、(3)と(4)の間の非対称性も広く受け入れられると考える十分な根拠となる。

功利主義者の「幸福が増大させられる可能性があるならばそうする義務がある」という見解に対する反論も解説されているが、ここでは割愛する。

さて、この議論をベースに存在することが常に害悪であるのは何故か、を明らかにするため、X(存在者、特定の誰か、と解釈して差し支えないと思われる)が存在するシナリオAとシナリオBを比較する。

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図2-1

(1)が「悪い」で、(2)が「良い」であることには議論の余地はない。しかし、先の考察に従うならば、(3)は「良い」である。ただし(4)は「悪い」ではない。「存在していない利益」を奪われている人など誰一人いないからである。 ベネターは他のケースについても図を用いて説明し、最終的に否定されることを論じている。しかし長くなるので(加えて説明が入り組んでいる)ここでは割愛。

さて、図2-1を用いて「存在すること」と「決して存在しないこと」の利点・欠点をはっきりさせるため、(1)と(3)、及び(2)と(4)について比較する。

  • (1)と(3)の比較では、シナリオBはシナリオAに優る。(つまり、非存在は存在に優る)
  • 対して、(2)と(4)の比較ではシナリオAはシナリオBに優る、とは言えない。(つまり、存在が非存在に優るとは言えない)

何故なら「快楽がない」は「悪い」ではないからである。

存在することと決して存在しないことを比較する

「快楽がある」という状態は中立の状態に対して優っているという点で、「良い」は「悪くはない」より利点がある、という異論に対しては根本的な誤謬があるとして以下のように述べている。

その誤謬は、シナリオBにおける快楽の不在が、シナリオAにおける快楽の不在と同じように扱われている点にある—-ある可能性が私の図では反映されていないが、それは非対称性に関して私が自分で述べた(4)の説明の中に含意されている。そこで私は、快楽が存在していないことは悪くない、この不在が誰かからの剥奪になってしまうような誰かがいない限りは、と述べた。

当然、喪失や剥奪によって快楽が存在していないのは悪いことだと言える。快楽が存在していないことは(快楽が存在している状態と比較して)相対的に悪い、ということなのである。ただし、これはXがシナリオAにおいて存在していることによって成立する。Xにとって快楽を感じている精神状態の代わりに、中立的な精神状態を持っているということだ。

対照的に、シナリオBにおいて快楽が存在していないこと(つまり(4)のこと)は、誰かが(例えばXが)中立の心の状態である、という訳ではない。この状態は誰かしらの精神の状態ではない。 「シナリオAにおいて快楽が存在している状態」は「シナリオAにおいて快楽が存在していない状態」よりも良いと言えるが、「シナリオBにおいて快楽が存在していない状態」よりも良いとは言えない、ということである。

つまり(4)は(2)と比較して悪い、ということはできず、それ故快楽があることはそれが剥奪とならない「(そもそもの)快楽の不在」よりも利点がある訳ではない、ということになる。 理解を助ける例が挙げられていたので下で紹介する。

  • S(=Sickness)さんは発病しやすい。しかし体質的にすぐに快復する能力がある。
  • H(=Healthy)さんはすぐに快復する能力はない。しかし病気には絶対にならない。

  • Sにとって病気になっていることは悪く、すぐに快復するということは良いことである。

  • Hが病気にならないことは良いことだが、すぐに快復する能力がないことは悪いことではない。

すぐに快復する能力はSにとっては良いものだが、この能力がHに対して優っているとは言えないし、Hにとってこの能力がないことは何の喪失でもない。いずれにしても、SがHより優れているとは言えないことがわかる。

(以上の例への反論と、それに対する再度の反論も議論されているが割愛。)

以上の議論により、決して存在してしまわないことに関して悪いことは何もないが、存在してしまうことに関して悪いことは何かしらある(一般的に言われる悪いこと、この記事の始め参照)わけで、それゆえ全体で見ると存在しないほうがより良い、と考えられる。 したがって、楽観主義者の主張が否定されるということである。 (快楽主義者の議論の説明とその破綻も説明されているが、割愛)

ここまでの議論でも依然として納得できない、プラスとマイナスの概念を用いた議論をしたい人への反論を示している。 まず、プラスとマイナスを2-1に当てはめると以下のようになる。

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図2-4

ここで、(3)の値については(1)の苦痛と同程度のプラスの値になるとするべきであり、例えば(1)の値が-nだったときに(3)の値は+nとなる。

2-4について、まずシナリオAの値を決定するために(1)と(2)の和を見る。次にシナリオBの値を(3)と(4)の和を見る。この値を比較するとき、絶対値で考えたときに(2)が(1)の二倍以上の値がある場合、シナリオAはシナリオBに優っているという議論である。(値全体を合算し、それを2で割る考え方)

しかしこれには問題が多数あるという。3章はじめの節で説明されるが、QOLを決定づける快楽と苦痛の割合も問題となる(QOLは単純にいいことから悪いことを引くだけでは決定できない)し、単に苦痛がどれだけあるのかも問題になる。苦痛がある閾値を超えると、快楽がどれだけあっても苦痛を相殺することができなくなる。

以上の通り、単純にプラスとマイナスを用いて表現することはできないということである。 (これを先のSさんとHさんの例を用いて再度説明しているが割愛する。)

リンク

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』① - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-1 - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-3 - 週一で読書

出典・参考

  • 生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪(すずさわ書店)