週一で読書

気持ち的には、週に約一冊のペースで読書の感想を書いています。

②-1 デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』

目次

  1. はじめに
  2. 存在してしまうことが害悪であるということがありえるか?
  3. 生きる価値のある人生と生きる価値のない人生
  4. 始めるに値する人生と続けるに値する人生
  5. リンク
  6. 出典・参考

はじめに

引き続き『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』を読んでいく。この記事では2章前半の内容に触れていく。

著者のデイヴィッド・ベネターによると、この本の主要な内容は2章と3章とのことで、極めて重要な内容なので丁寧に読んでいきたい。2章でもかなり入り組んだ内容になるので、ブログでは2章を前後編に分けようと思う。後半はこの記事が公開された2日後(21日)に公開予定とする。

また、自分の理解や簡潔な議論のために大幅に本の内容を割愛して説明していくことになると思われる。詳細な内容を知りたい方はご自分で購入して読まれることを推奨する。

存在してしまうことが害悪であるということがありえるか?

ベネターは、まず存在することが"常に"害悪であることを主張する前に、存在することが害悪であり"得る"ことを2つの例を用いて説明する。説明する内容は、「害になると思われる状況を取り除いて、その上でその同じ人物を存在させることが不可能な状況」である。

以下にその例を挙げる。

将来両親になり得る人物が深刻な遺伝的障碍を負っていて、何らかの理由でその障碍が彼らの子孫に遺伝するという場合に起こるだろう。選択肢は、ある一人の障碍を持った子どもを存在させるか、その子どもを全く存在させないかである。

2つ目の例を見てみよう。

赤ん坊のいる14歳の少女がいるのだが、彼女自身がまだ幼いせいで、その赤ん坊に対して何にせよ十分な機会を与えることができないという状況がそうだ。

もしその少女がより歳をとってから身ごもった場合は、厳密には前述の子供とは同じ子供ではない(別の精子卵子から形成されているから)。 従って、14歳の少女が社会的な困難を持つ子供を存在させることに代わる選択肢は、その子供を存在させないことであり、後に別の子供を産むことはまた別の問題と言える。

存在してしまうことは"常に"害悪である、という主張への一般的な嫌悪感に対して、上記の2例は一般的な人々の直感に適合している。とはいえ、そこには反論もあるという。

生きる価値のある人生と生きる価値のない人生

とある人生を生きる価値のないものにする障碍と、耐え難くはあるが人生を生きる価値のないものにするほどではない障碍との間の共通の特徴が語られるという。ある人が障碍とは不可分な時、存在させられることで害悪を被っているとは主張できない、と述べる人もいる。この主張をベネターは以下のように整理する。

  1. もし何かが誰かに害悪を与える場合に、それはその人を必ずより悪くしてしまう。
  2. 「より悪くする」関係は二つの状態間の関係である。
  3. 従って、誰かがある状態(例えば存在するよう)になることでより悪くなるのであれば、そうでない状態はその人が比較してより悪くはなっていない(もしくは良い)状態である。
  4. しかし非存在はそこに何かが存在し得る状態ではないのであり、従って非存在は存在と比較され得ない。
  5. 従って存在してしまうことが、決して存在してしまわないことよりもより悪いというのはあり得ない。
  6. 結果として、存在してしまうことが害悪であるということはあり得ない。

この主張に対して、ベネターは第一の前提となる主張を退けることで反論している。

悪いというだけで十分だろう、害悪についてこう考えれば、存在してしまうことは害悪であり得る。ある人生が存在させられたその人にとって悪いものである時、その人生が生きる価値のないものである場合には間違いなく悪いものであるが、その人が存在してしまうことは(そうでない状態が悪くなかっただろうと考えると)害悪である。

(個人的には上の一連の議論には飛躍があるように感じられるが、現段階では具体的にどう飛躍していると感じたのかうまく言語化できないのでその違和感をnoteしておく。)

ファインバーグによる違った反論も参考に挙げられているが、ここでは割愛する。

始めるに値する人生と続けるに値する人生

ベネターは「生きるに値する人生」という表現の曖昧さについて整理する。つまり、「続けるに値する人生」「始めるに値する人生」の二者である。 「続けるに値する人生」は既に存在している人物に対しての判断、対して「始めるに値する人生」は、存在し得るが生まれてはいないものに関してできる判断という。

問題なのは、多くの人が今ある人生という意味を用いて、今はまだない人生の場合にも当てはめてしまっているということだ。

既に生きている人間のケースを連想して、まだ存在していない人間のケースについて議論してしまわれがちである、ということだ。しかし、実際にはこの二者は大きく異なっているという。

もしある人生が続けるに値しないものであるのならば、当然その人生は始めるに値するものではない。だからといって、もしある人生が続けるに値するものであるのならばその人生は始めるに値するということや、もしある人生が始めるに値しないのであればその人生は続けるに値しないのだろうということが、当然のように帰結するわけではない。

例えば、手足のどれか一本をなくして生きていかなければならないからといって死ぬほど悪くはないとほとんどの人が考えている一方で、ほとんどの(前者と同程度の)人は手足のどれか一本が欠けてしまうだろう人物を存在させないことはましなことだとも考えているのだ。

私たちは、人生を始めないという判断をすることによりも、終わらせるという判断をすることにより強い理由を必要とするのだ。

以上の議論によって、「生きるに値する人生でも始めない方が良い」という見解が矛盾しているように見えるのは、「始めるに値する人生」と「続けるに値する人生」を「生きるに値する人生」として一括りに扱っているからである、ということがわかる。「続けるに値する人生(または、続けるに値しない人生)でも始めない方がいい」と書けば矛盾がないことが理解できるようになる。

つまり、ベネターは「今はまだない人生」と「今ある人生」のケースとの間には道徳的判断に影響する重要な違いがある、ということを主張したわけである。

関連してベネターは妊娠中絶についてここで簡単に議論しているが、本筋から外れるためここでは割愛する。(この本では5章でも妊娠中絶について詳しく議論している)

ここまでベネターは存在してしまうことが害悪であり得る、ということを主張してきた。ここから、存在してしまうことが"常に"害悪である、ということの主張へと転換する。

(この先が入り組んだ内容になり、文量が膨大になるため一記事にまとめることを断念した。)

リンク

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』① - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-2 - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-3 - 週一で読書

出典・参考

  • 生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪(すずさわ書店)

この段階ではまだ直感的で理解も容易であるように感じるとともに、(例にあるような)限定的な状況においてのみ非存在が勝る議論に思えました。しかし、2章後半では具体例を用いることが難しい内容でもあり、議論が難解になりました。(日本語が難しいという話もある)できるだけ簡潔にまとめられるように頑張ります。