週一で読書

気持ち的には、週に約一冊のペースで読書の感想を書いています。

③-1 デイヴィッド・ベネター 『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』

目次

  1. はじめに
  2. 存在してしまうことがどれほど悪いのか
  3. 人生の良さと悪さの差が人生の質にはならない理由
  4. 何故人生の質の自己判断は信頼できないのか
  5. リンク
  6. 出典・参考

はじめに

引き続き『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』を読んでいく。この記事では3章前半の内容に触れていく。

著者のデイヴィッド・ベネターによると、この本の主要な内容は2章と3章とのことで、極めて重要な内容なので丁寧に読んでいきたい。2章以前の内容についての記事を読んでいない方は、そちらを先に読んでいただきたい。

mrimtak.hatenablog.com

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また、自分の理解や簡潔な議論のために大幅に本の内容を割愛して説明していくことになると思われる。詳細な内容を知りたい方はご自分で購入して読まれることを推奨する。

存在してしまうことがどれほど悪いのか

2章の説明で「存在してしまうことが常に害悪である」という結論を導いたが、「存在してしまうことがどれほど害悪なのか」について3章で説明していく。(③-1では、その前提を整理する)

「存在してしまうことがどれほど害悪なのか」という問いに対する回答は、「(存在するという)その結果生じている人生がどれほど悪いのか」による。すべての人が存在することで害悪を被っているとしても、そのすべての人生の害悪の度合いは同じにはならない。 しかし、ベネターの主張は「ベストな人生であってもそれは非常に悪いもので、それ故存在させられることはどんな場合でも相当な害悪だ」というものだ。 (ただし、ベネターは「すべての人生が悪いからと言って人生は続けるに値しない」という主張は持っていない。「人生は思っているよりも悪く、どんな人生も多くの害悪を含んでいる」ということの主張に止まるものであることを記してある。)

人生の良さと悪さの差が人生の質にはならない理由

②-2の最後に述べたとおり、人生の質は、人生のプラス面からマイナス面を引いただけで単純に判断することはできない。何よりもまず考慮するべきは、「良いことと悪いことがどのように分布しているか」ということだという。 このことをベネターは4つの要素から説明する。それは以下の通りである。

  • 順番
  • 強度
  • 人生の長さ
  • 閾値

順番

例えば、「人生の前半にその人生の良いことがすべて生じ、人生の後半に悪いことが立て続けに起こる人生」は、「良いことと悪いことがバランスよく起こる人生」よりも遥かに悪いだろう。 同様に、「徐々に何かを達成したり満足したりする方向に向かう人生」は、「人生の初めは晴れやかに始まるが、次第に悪くなっていく人生」よりも好ましいだろう。

強度

「異常なほどに強力な快楽が散りばめられているがその快楽はほとんど滅多に生じず持続もしない人生」は、快楽の総量は同じとき「比較的強くはない快楽が生涯を通じて頻繁に散りばめられている人生」よりも悪いだろう。 しかし、快楽や他の良いことがあまりにも広く薄く散りばめられてしまうこともある。それは良くも悪くもないニュートラルな状態が続く人生との区別が難しく、そうした人生はそれなりに目立った「贅沢な状態」が少し起こる人生よりも悪い、と言えるだろう。

人生の長さ

人生の長さは、良いことと悪いことの量と相互に動的に影響し合う。「ほんの少しの良いことしかない長い人生」は、大量の悪いことで特徴付けられるだろう。(その悪いことが"退屈"ということもある) また、良いことと悪いことに関係なく「同程度にニュートラルな長い人生と短い人生」についても、良し悪しの評価がつくことだろう。(これは人によって評価が分かれるものとしている)

閾値

人生がある一定の悪さの閾値を一度でも超えるとすれば(その悪さの量と分布を考慮に入れる必要があるが)、良いことがどれほどあろうともその悪さを打ち消すことは決してできないとベネターは主張する。 ベネターはこれをドナルド・コワートの例を持ち出して説明している。

~この価値判断こそ、ドナルド(「ダックス」)・コワートが自らの人生に -少なくとも、ガス爆発のせいで身体の三分の二が吹き飛んだ後の人生に- 下したものなのだ。彼は極度の苦痛を伴う救命治療を拒絶したが、それにもかかわらず医者は、彼の意向を無視して治療を結構したのである。その結果、彼は一命を取り止め、またかなりの成功を収めたことで十分なQOLを再び手に入れた。けれども、ヤケドを負ってから手に入れた良いことなんてどれも無理やり受けた数々の治療に耐え抜くというつらさにとって代わるほど価値のあるものではないと、コワートは主張し続けたのである。


これまでの考察から、人生がどれほど悪いかを判断することは単なる加算や減算では表現できないことが明らかになった。

何故人生の質の自己判断は信頼できないのか

総合的に考えて自分の人生は悪いものだ、という結論に首肯する人はほとんどいないし、実際ほとんどの人が自分の人生は順調に進んでいるものと考えている。しかし、こうした自己判断が人生の質に関する指標となることを疑うべき理由があるという。 人間心理には人生の質に関して好意的に認識するようなバイアスがあり、このバイアスから価値判断が説明されるというのだ。

  • ポリアンナ原理
  • 適応・順応・習慣化
  • 他人の幸福との比較

ポリアンナ原理

最も一般的で、かつ最も影響力があると言われているのがこのポリアンナ原理であり、楽観主義へ向かう傾向のことである。この原理は様々な形で現れる。

例えば、悪いことよりも好いことを思い出したがるという傾向がある。例えば、自分の人生を通してどんな出来事があったのかを思い出すように言われると、数多くの被験者が悪いことよりも好いことを挙げる。このように選り好みをしてしまうことで、自分の人生に対して誤った判断をしてしまうということである。

バイアスは自分の過去に関する価値判断だけではなく、未来に関する予測と期待にもかかる。幸福の自己判断は、自分を幸福だと思う方に著しく歪められている。(つまり期待してしまうということ) 人々を「とても不幸に」するかもしれないと考えられてしまうような類の出来事があったとしても、実際にとても不幸だと思ってしまうのは、非常に僅かな人々だけだということはデータから明らかなのである。

適応・順応・習慣化

何か悪いことが起こったときに、まずそこには主観的な不満感が生まれる。しかし、その状況に適応しようとしたり、自分の期待を順応させようとしたりする傾向がある。順応の程度には個人差があるが、適応が生じるということに関して基本的には意見が一致している。 適応の結果として幸福の主観的感覚が変わり、以前とは異なるレベル(低いレベル)でも幸福感を感じるようになる、ということだ。

他人の幸福との比較

自分の人生がどれくらい幸福かの自己判断を決定づけるのは、自分の人生そのものよりも他人の人生と比較してどのくらい幸福かに依るというのだ。従って、幸福に関する自己判断は絶対的ではなく相対的なものだといえる。 これは、全員が同様に苦痛を感じているのであれば、それは人々にとって自身の幸福の判断には響かない、ということだ。(実際にはそこには苦痛があるというのに!)これを見落とすことで、幸福に関して正しく判断ができないということに繋がる。


以上に挙げた三つの心理学的現象のうち、必ず人生をプラス方向に価値判断させているのはポリアンナ効果だけだ。幸福に対しても我々は適応するし、自分より幸福な人と比較して不幸に感じてしまうこともある。 しかし、どちらにしても我々はポリアンナ効果の影響下にある状態から判断をスタートしてしまう。適応にしても比較にしても、いずれも楽観的なバイアスがかかっていることを意識しなくてはならない。

適応や比較は条件が揃えばポリアンナ効果を強める。対して、条件が悪ければポリアンナ効果を弱めはするものの、これを完全に無効化することはないのである。 こうした心理学的現象は、進化論的な視点からは驚くべきことではなく、自殺を防ぎ、子作りを促進するよう促すものとして当然のように感じられる。

かくして、私たちは楽観的なバイアスを備えており、ペシミズムは自然には選択されないということが明らかになった。

次の記事では、人生の質に関する3つの見解と、そのどれを選択しても人生は上手くいかないことを示していく。

リンク

①デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』 - 週一で読書

②-1 デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』 - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-2 - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-3 - 週一で読書

出典・参考

  • 生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪(すずさわ書店)

②-3 デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』

目次

  1. はじめに
  2. 別の非対称性
  3. 生まれてきたことを悔いない事に逆らって
  4. リンク
  5. 出典・参考

はじめに

引き続き『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』を読んでいく。この記事では2章後半の内容に触れていく。

著者のデイヴィッド・ベネターによると、この本の主要な内容は2章と3章とのことで、極めて重要な内容なので丁寧に読んでいきたい。2章でもかなり入り組んだ内容になるので、前中後編の3編に分けた。前編、中編を読んでいない方は、そちらを先に読んでいただきたい。

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また、自分の理解や簡潔な議論のために大幅に本の内容を割愛して説明していくことになると思われる。詳細な内容を知りたい方はご自分で購入して読まれることを推奨する。

別の非対称性

②-2までで、存在してしまうことが害悪だというために、快楽と苦痛は非対称的であるということを説明してきた。 この節では、存在してしまうことが常に深刻な害悪であるという考えが、子作りに関して議論を拡張するということである。

関連して、クリストフ・フェーイゲとシーナ・シフリンの議論とベネターの議論との類似点を挙げている。詳細については省かせてもらうが、概要のみ説明する。

シフリンは、利益と害悪について尺度を用いて計れるようなものではなく、それぞれプラスとマイナスの絶対的な状態として理解している。その上で、彼女も利益と害悪についての非対称性に訴えている。(ただしこの非対称性はベネターのものとは異なる)

ある人にとってのより大きな害悪を防ぐために、その人物により小さな害悪を与える事には問題はなく、むしろそうすべきという。(個人的にはこの話は直前の尺度の議論を前提としたときに矛盾しているように感じるが、内容には概ね同意する)

例えば、その人の命を助けるためであれば、意識を失っている人の腕を(同意なしに)折る、ということは認められ得る(これは「救助のケース」である)。 救助のケースとして我々日本人にとってより身近な例として、以下のようなものがあるかもしれない。 駅で倒れている女性を救うために、AEDを使う必要がある。AEDのパッドを装着するために、女性の服を裁断するということは認められ得る。(私の記憶が確かなら、AEDの装置にはハサミが入っている)

以上のようなものである。 反対に、より大きな利益をもたらすために害悪を負わせることは悪い事になる。

例えば、より大きな何らかの知識や能力を得るためにその人の腕を折るということは一般に非難されるであろう。(よくある漫画の悪役を連想すると良いかもしれない。「どうしてそんなことのために○○したんだ…!」)

子供を産むという行為は、この議論においては後者にあたり、行われるべきではないという主張である。


フェーイゲの議論は、よりベネターの議論に近いという。彼は「反失望主義〔antifrustrationism〕」と呼称されるものを擁護して詳述している。 この見解に基づくと、自分の選好が充足した場合も、選好が全く存在しない場合も等しく良い。それ故、悪いのは選好が充足しない場合のみである、という。 言い換えると、選好が充足するケースはそもそも願望が0の場合よりも優れている訳ではない。重要なのは失望の回避であるということである。 この半失望主義は、人を生み出さないほうがいいということを含意している。

生まれてきたことを悔いないことに逆らって

今まで全く誰一人として愛したことがないよりも、愛し失ったことがあるほうが良いのだと(アレフレッド・テスニンを持ってきて)考える人がいるが、存在についても愛と同様の筋で議論しようとする人がいる。 これに対して、ベネターは愛することと存在してしまうことは決定的に違う、として退ける。誰一人として愛していない人物は愛することなしに存在しているのであって、愛することを奪われている。つまり「悪い」。反対に、絶対に存在してしまわない人物は何者も奪われていない。ベネターの論であれば、それは「悪くはない」。

直感的に「存在することは害悪である」という結論に対して嫌悪感を抱く人は多いだろう。自分が人生を楽しんでいることを論拠に存在を肯定する人も少なくないはずだ。しかしそれを間違っているとベネターはいう。仮にその人が存在しなかったとしても、その人生を送る楽しみを取り逃す人などおらず、よって楽しみがないことは悪いことではないからだ。 逆に、存在を苦しむ人物のことを考えてみる。この場合、存在してしまったことを悔いるのは当然だ。しかしその場合、その人が存在しなかったのなら、その人が送る生で苦しむ存在者は誰一人としていない。

また別の反論についても言及されている。苦痛に苛まされているかどうかについて間違えることがないように、生まれてきてよかったかどうか、についても間違えるはずがない、という反論である。 「生まれてきてよかった」という主張が「私が存在するようになったことは、そうでなかったよりも良い」と等しいならば、存在は非存在よりも良いかどうかについて人は間違えるはずがない。しかし問題は、この二つの命題は異なる、という点にある。 「生まれてきたことを現によかったと思っていることを人は間違えない」としても、「存在してしまったことがそうでなかったより良いかどうかについて、人は間違えるはずがない」ということではない。誰かが人生のある一点において自らの存在を喜んでいて、その後に想像を絶する苦痛に身をおかれ、自らの存在を悔いたような状態を考えてみる。このケースは全体で見てみると、「存在してよかった」かつ「存在しないほうがよかったとなるが、本来それ両方であるというのはおかしい。(しかしそうとしか表現できなくなってしまう)

ここに関連して、人生は人が考えているよりもはるかに悪いのである、ということをベネターは3章で説明するのである。

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デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』① - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-1 - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-2 - 週一で読書

出典・参考

  • 生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪(すずさわ書店)

はじめに公開した②-2をスマートフォンから閲覧し、文字の暴力すぎて仕方なく記事を分割しました。多少は改善されていれば嬉しいです。よければ引き続きご指摘等いただけると幸いです。

さて、ここまで読んできてこの本については2章と3章を纏めるに止めようと考えています。

  • 2,3章で概要を把握するには十分と判断した為
  • 「自分の理解を助ける」という目的を前提にしたときに、その他の章の分も書くのはコスパが悪いと考える為
  • 小説と違って、この手の本は自分の意見を介入させた記事を書くのが難しい(要約に止まってしまいがち)為

などの理由からです。3章もおそらく3本ほどの記事になるかと思いますが、その後に改めて自分が感じたことをまとめて終わりにしようと考えています。長くなりますがお付き合いいただければ幸いです。

②-2 デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』

目次

  1. はじめに
  2. 何故存在してしまうことは常に害悪であるのか
  3. 快楽と苦痛の非対称性
  4. 存在することと決して存在しないことを比較する
  5. リンク
  6. 出典・参考

はじめに

引き続き『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』を読んでいく。

著者のデイヴィッド・ベネターによると、この本の主要な内容は2章と3章とのことで、極めて重要な内容なので丁寧に読んでいきたい。2章でもかなり入り組んだ内容になるので、前中後編の3編に分けた。前編を読んでいない方は、そちらを先に読んでいただきたい。

mrimtak.hatenablog.com

また、自分の理解や簡潔な議論のために大幅に本の内容を割愛して説明していくことになると思われる。詳細な内容を知りたい方はご自分で購入して読まれることを推奨する。

何故存在してしまうことは常に害悪であるのか

まだ存在していない人についての議論の共通点として、「存在させられた人間には利益もある」という主張がある。この主張が間違っていることを示し、存在が常に害悪であることを示していく。 ただし、何一つ悪いことが起こらないような、仮想的な人生の場合には当てはまらない。何か一つでも悪いことが起こる人生は、常に害悪であると帰結する。(骨折とか風邪をひくとか、一般的に言われる「悪いこと」全般)

まずベネターは「楽観主義者の主張」として、「悪いことだけではなく良いことも人生には起こる。快楽が害悪を超えている場合においては人生は生きるに値する(生まれるに値する)のではないか」という主張に対して反論する。

快楽と苦痛の非対称性

害悪と利益には決定的な違いがある。その違いにおいて存在が非存在に優る点はなく、存在が不利である。

前提として、以下の通りである。

  1. 苦痛が存在しているのは悪い。
  2. 快楽が存在しているのは良い。
  3. 苦痛が存在していないことは良い。それは、その良さを教授している人がいなくても良い。
  4. 快楽が存在していないことは、こうした不在がその人にとって剥奪を意味する人がいない場合に限り、悪くない。

1と2について、これは快楽と苦痛が存在していないことには当てはまらない。(両者が存在している議論であるから)

3と4の非対称性を擁護する立場だと、最終的に存在が害悪である、という立場を擁護する主張に帰結する、ということである(つまりこれをベースに議論していくよ、ということ)。 ここで、3と4の間の非対称性から4つの例を取り上げる。


①「苦痛を被る人々を存在させない義務」があるのだと私たちが考えるのは、「そうした苦痛が存在していること」は悪いことだろうし「その苦痛が存在していないこと」は良いことだからなのだ。

これに対して、幸福な人々の喜びはその人たちにとって良いだろうが、「そうした喜びが存在していなくてもその人たちにとって悪いわけではない」という理由で、その人々を存在させる義務は全くないと考えるのである。


②子供を持つことが、その子供を益する為であれば、多くの人にとって子供を持つことに道徳的な意味があったことだろう。

これに対して、苦痛を被るかもしれないまだ存在していない子どもの幸福に対する関心は、子供を持たないことを選択する健全な根拠になる。「喜びが存在していないこと」が悪いことだったら、子供自身のために子供を持つことは否定できない。 そして、誰かにとって「苦痛が存在していないこと」が良いことではなかったとしても、「苦痛が存在していないことが良いことだ」が真でなければ、「苦痛を被る子どもを存在させることを避ける」が良いことであるとは言えなかっただろう


③人々を存在させることと同じく人々を存在させないことは悔やまれ得る。しかし私たちの判断次第で存在する人のためにとなると、人を存在させることだけが悔やまれ得る。つまり、「存在していない人が快楽を獲得できないこと」を悔いることはできない。

子供を持っていないことによる悔恨は、子供のための悔恨ではなく、「自分の出産と養育の機会損失」への悲しみである。誰かを存在させなかったことを嘆き悲しまないのは、快楽が存在していないことが悪いことではないからである。


④「(遠く離れた)苦痛」と「地球、または全世界の中で人類が住んでいない部分」についての非対称的な判断を考える。 苦痛に彩られた人生を生きている異国の住民のことを思うと確かに悲しくなる。しかし、人の存在しない島のことを耳にしても、もし存在していたらその島に住んでいたであろう幸福な人々のことを思って同じように悲しくなったりはしない。同様に、そのような可能的な存在者が人生を楽しめないことを悲しく感じる人は誰もいない。

火星に住んでいない人のことを思って悲しくなる人はいないが、もしも火星に感覚のある生命がいて、その火星人が苦痛に苛まされていると知ったら、火星人のために悲しく感じるかもしれない。 ここでの論点は、私たちは存在があり得た人の苦痛を残念に思うが、その人々の快楽が存在しないことを残念に思いはしないということ。


(3)と(4)の間の非対称性から、4種類の異なる非対称性を示した。これら4つの非対称性が受け入れられるならば、(3)と(4)の間の非対称性も広く受け入れられると考える十分な根拠となる。

功利主義者の「幸福が増大させられる可能性があるならばそうする義務がある」という見解に対する反論も解説されているが、ここでは割愛する。

さて、この議論をベースに存在することが常に害悪であるのは何故か、を明らかにするため、X(存在者、特定の誰か、と解釈して差し支えないと思われる)が存在するシナリオAとシナリオBを比較する。

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図2-1

(1)が「悪い」で、(2)が「良い」であることには議論の余地はない。しかし、先の考察に従うならば、(3)は「良い」である。ただし(4)は「悪い」ではない。「存在していない利益」を奪われている人など誰一人いないからである。 ベネターは他のケースについても図を用いて説明し、最終的に否定されることを論じている。しかし長くなるので(加えて説明が入り組んでいる)ここでは割愛。

さて、図2-1を用いて「存在すること」と「決して存在しないこと」の利点・欠点をはっきりさせるため、(1)と(3)、及び(2)と(4)について比較する。

  • (1)と(3)の比較では、シナリオBはシナリオAに優る。(つまり、非存在は存在に優る)
  • 対して、(2)と(4)の比較ではシナリオAはシナリオBに優る、とは言えない。(つまり、存在が非存在に優るとは言えない)

何故なら「快楽がない」は「悪い」ではないからである。

存在することと決して存在しないことを比較する

「快楽がある」という状態は中立の状態に対して優っているという点で、「良い」は「悪くはない」より利点がある、という異論に対しては根本的な誤謬があるとして以下のように述べている。

その誤謬は、シナリオBにおける快楽の不在が、シナリオAにおける快楽の不在と同じように扱われている点にある—-ある可能性が私の図では反映されていないが、それは非対称性に関して私が自分で述べた(4)の説明の中に含意されている。そこで私は、快楽が存在していないことは悪くない、この不在が誰かからの剥奪になってしまうような誰かがいない限りは、と述べた。

当然、喪失や剥奪によって快楽が存在していないのは悪いことだと言える。快楽が存在していないことは(快楽が存在している状態と比較して)相対的に悪い、ということなのである。ただし、これはXがシナリオAにおいて存在していることによって成立する。Xにとって快楽を感じている精神状態の代わりに、中立的な精神状態を持っているということだ。

対照的に、シナリオBにおいて快楽が存在していないこと(つまり(4)のこと)は、誰かが(例えばXが)中立の心の状態である、という訳ではない。この状態は誰かしらの精神の状態ではない。 「シナリオAにおいて快楽が存在している状態」は「シナリオAにおいて快楽が存在していない状態」よりも良いと言えるが、「シナリオBにおいて快楽が存在していない状態」よりも良いとは言えない、ということである。

つまり(4)は(2)と比較して悪い、ということはできず、それ故快楽があることはそれが剥奪とならない「(そもそもの)快楽の不在」よりも利点がある訳ではない、ということになる。 理解を助ける例が挙げられていたので下で紹介する。

  • S(=Sickness)さんは発病しやすい。しかし体質的にすぐに快復する能力がある。
  • H(=Healthy)さんはすぐに快復する能力はない。しかし病気には絶対にならない。

  • Sにとって病気になっていることは悪く、すぐに快復するということは良いことである。

  • Hが病気にならないことは良いことだが、すぐに快復する能力がないことは悪いことではない。

すぐに快復する能力はSにとっては良いものだが、この能力がHに対して優っているとは言えないし、Hにとってこの能力がないことは何の喪失でもない。いずれにしても、SがHより優れているとは言えないことがわかる。

(以上の例への反論と、それに対する再度の反論も議論されているが割愛。)

以上の議論により、決して存在してしまわないことに関して悪いことは何もないが、存在してしまうことに関して悪いことは何かしらある(一般的に言われる悪いこと、この記事の始め参照)わけで、それゆえ全体で見ると存在しないほうがより良い、と考えられる。 したがって、楽観主義者の主張が否定されるということである。 (快楽主義者の議論の説明とその破綻も説明されているが、割愛)

ここまでの議論でも依然として納得できない、プラスとマイナスの概念を用いた議論をしたい人への反論を示している。 まず、プラスとマイナスを2-1に当てはめると以下のようになる。

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図2-4

ここで、(3)の値については(1)の苦痛と同程度のプラスの値になるとするべきであり、例えば(1)の値が-nだったときに(3)の値は+nとなる。

2-4について、まずシナリオAの値を決定するために(1)と(2)の和を見る。次にシナリオBの値を(3)と(4)の和を見る。この値を比較するとき、絶対値で考えたときに(2)が(1)の二倍以上の値がある場合、シナリオAはシナリオBに優っているという議論である。(値全体を合算し、それを2で割る考え方)

しかしこれには問題が多数あるという。3章はじめの節で説明されるが、QOLを決定づける快楽と苦痛の割合も問題となる(QOLは単純にいいことから悪いことを引くだけでは決定できない)し、単に苦痛がどれだけあるのかも問題になる。苦痛がある閾値を超えると、快楽がどれだけあっても苦痛を相殺することができなくなる。

以上の通り、単純にプラスとマイナスを用いて表現することはできないということである。 (これを先のSさんとHさんの例を用いて再度説明しているが割愛する。)

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デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』① - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-1 - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-3 - 週一で読書

出典・参考

  • 生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪(すずさわ書店)

②-1 デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』

目次

  1. はじめに
  2. 存在してしまうことが害悪であるということがありえるか?
  3. 生きる価値のある人生と生きる価値のない人生
  4. 始めるに値する人生と続けるに値する人生
  5. リンク
  6. 出典・参考

はじめに

引き続き『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』を読んでいく。この記事では2章前半の内容に触れていく。

著者のデイヴィッド・ベネターによると、この本の主要な内容は2章と3章とのことで、極めて重要な内容なので丁寧に読んでいきたい。2章でもかなり入り組んだ内容になるので、ブログでは2章を前後編に分けようと思う。後半はこの記事が公開された2日後(21日)に公開予定とする。

また、自分の理解や簡潔な議論のために大幅に本の内容を割愛して説明していくことになると思われる。詳細な内容を知りたい方はご自分で購入して読まれることを推奨する。

存在してしまうことが害悪であるということがありえるか?

ベネターは、まず存在することが"常に"害悪であることを主張する前に、存在することが害悪であり"得る"ことを2つの例を用いて説明する。説明する内容は、「害になると思われる状況を取り除いて、その上でその同じ人物を存在させることが不可能な状況」である。

以下にその例を挙げる。

将来両親になり得る人物が深刻な遺伝的障碍を負っていて、何らかの理由でその障碍が彼らの子孫に遺伝するという場合に起こるだろう。選択肢は、ある一人の障碍を持った子どもを存在させるか、その子どもを全く存在させないかである。

2つ目の例を見てみよう。

赤ん坊のいる14歳の少女がいるのだが、彼女自身がまだ幼いせいで、その赤ん坊に対して何にせよ十分な機会を与えることができないという状況がそうだ。

もしその少女がより歳をとってから身ごもった場合は、厳密には前述の子供とは同じ子供ではない(別の精子卵子から形成されているから)。 従って、14歳の少女が社会的な困難を持つ子供を存在させることに代わる選択肢は、その子供を存在させないことであり、後に別の子供を産むことはまた別の問題と言える。

存在してしまうことは"常に"害悪である、という主張への一般的な嫌悪感に対して、上記の2例は一般的な人々の直感に適合している。とはいえ、そこには反論もあるという。

生きる価値のある人生と生きる価値のない人生

とある人生を生きる価値のないものにする障碍と、耐え難くはあるが人生を生きる価値のないものにするほどではない障碍との間の共通の特徴が語られるという。ある人が障碍とは不可分な時、存在させられることで害悪を被っているとは主張できない、と述べる人もいる。この主張をベネターは以下のように整理する。

  1. もし何かが誰かに害悪を与える場合に、それはその人を必ずより悪くしてしまう。
  2. 「より悪くする」関係は二つの状態間の関係である。
  3. 従って、誰かがある状態(例えば存在するよう)になることでより悪くなるのであれば、そうでない状態はその人が比較してより悪くはなっていない(もしくは良い)状態である。
  4. しかし非存在はそこに何かが存在し得る状態ではないのであり、従って非存在は存在と比較され得ない。
  5. 従って存在してしまうことが、決して存在してしまわないことよりもより悪いというのはあり得ない。
  6. 結果として、存在してしまうことが害悪であるということはあり得ない。

この主張に対して、ベネターは第一の前提となる主張を退けることで反論している。

悪いというだけで十分だろう、害悪についてこう考えれば、存在してしまうことは害悪であり得る。ある人生が存在させられたその人にとって悪いものである時、その人生が生きる価値のないものである場合には間違いなく悪いものであるが、その人が存在してしまうことは(そうでない状態が悪くなかっただろうと考えると)害悪である。

(個人的には上の一連の議論には飛躍があるように感じられるが、現段階では具体的にどう飛躍していると感じたのかうまく言語化できないのでその違和感をnoteしておく。)

ファインバーグによる違った反論も参考に挙げられているが、ここでは割愛する。

始めるに値する人生と続けるに値する人生

ベネターは「生きるに値する人生」という表現の曖昧さについて整理する。つまり、「続けるに値する人生」「始めるに値する人生」の二者である。 「続けるに値する人生」は既に存在している人物に対しての判断、対して「始めるに値する人生」は、存在し得るが生まれてはいないものに関してできる判断という。

問題なのは、多くの人が今ある人生という意味を用いて、今はまだない人生の場合にも当てはめてしまっているということだ。

既に生きている人間のケースを連想して、まだ存在していない人間のケースについて議論してしまわれがちである、ということだ。しかし、実際にはこの二者は大きく異なっているという。

もしある人生が続けるに値しないものであるのならば、当然その人生は始めるに値するものではない。だからといって、もしある人生が続けるに値するものであるのならばその人生は始めるに値するということや、もしある人生が始めるに値しないのであればその人生は続けるに値しないのだろうということが、当然のように帰結するわけではない。

例えば、手足のどれか一本をなくして生きていかなければならないからといって死ぬほど悪くはないとほとんどの人が考えている一方で、ほとんどの(前者と同程度の)人は手足のどれか一本が欠けてしまうだろう人物を存在させないことはましなことだとも考えているのだ。

私たちは、人生を始めないという判断をすることによりも、終わらせるという判断をすることにより強い理由を必要とするのだ。

以上の議論によって、「生きるに値する人生でも始めない方が良い」という見解が矛盾しているように見えるのは、「始めるに値する人生」と「続けるに値する人生」を「生きるに値する人生」として一括りに扱っているからである、ということがわかる。「続けるに値する人生(または、続けるに値しない人生)でも始めない方がいい」と書けば矛盾がないことが理解できるようになる。

つまり、ベネターは「今はまだない人生」と「今ある人生」のケースとの間には道徳的判断に影響する重要な違いがある、ということを主張したわけである。

関連してベネターは妊娠中絶についてここで簡単に議論しているが、本筋から外れるためここでは割愛する。(この本では5章でも妊娠中絶について詳しく議論している)

ここまでベネターは存在してしまうことが害悪であり得る、ということを主張してきた。ここから、存在してしまうことが"常に"害悪である、ということの主張へと転換する。

(この先が入り組んだ内容になり、文量が膨大になるため一記事にまとめることを断念した。)

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デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』① - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-2 - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-3 - 週一で読書

出典・参考

  • 生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪(すずさわ書店)

この段階ではまだ直感的で理解も容易であるように感じるとともに、(例にあるような)限定的な状況においてのみ非存在が勝る議論に思えました。しかし、2章後半では具体例を用いることが難しい内容でもあり、議論が難解になりました。(日本語が難しいという話もある)できるだけ簡潔にまとめられるように頑張ります。

①デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』

目次

  1. はじめに
  2. 反出生主義とは
  3. 読む前から私が抱いている反出生主義的思想
  4. リンク
  5. 出典・参考

はじめに

この記事は何本か書く記事の1本目です。この記事ではタイトルの本の内容に直接触れることはほとんど書いてありませんので、あらかじめご了承ください。


私は、そもそもこの本を読む以前から(単語としては知らなかったが)反出生主義的思想を持っていた。そこで自分の論を補強するために(あるいはその論が覆されるべきである、という反論を持つために)、反出生主義の人間の著書としてこの本を手に取った次第である。

私にとってこの本は難解で、読む+考察に時間をかけたいので何章かに分けようと思っている。(現状、7章まであるうちの3章途中までしか読めていない) この記事では、手始めに①反出生主義とは何なのか、②読む前に反出生主義に対して自分が持っていた見解、③この本の各章の考察へのリンク 以上を示していこうと思う。

反出生主義とは

反出生主義とは、文字通り「子供を産む」という行為一般について否定的な意見を持つということである。反出生主義的見解を持つ哲学者として、ショーペンハウアーやエミール・シオラン、そして今回取り上げる『生まれてこないほうがよかった』著者であるデイヴィッド・ベネター(以下著者と表記)らが挙げられる。

他の思想一般と同じように、反出生主義も一枚岩ではない。その思想に到達する道筋は数多くあり、典型的な例として「赤ん坊が嫌いである」とか、「結婚しても、子供を持つより2人で生活したほうが楽しい」とか、ごく身近な発想もある種の反出生主義と呼び得るものである。

ベネター曰く、「存在してしまうことが常に深刻な害悪であるという見解は、私たちは子どもを持つべきではないということを示唆している」ということである。この本では、存在してしまうことが常に害悪であることを示し、子供を作る(道徳的な)義務はなく、条件付きで、人類の段階的絶滅を考慮に入れるべきなのである、という主張を示す。

読む前に私が抱いている反出生主義的思想

先に述べたとおり、私はいま反出生主義的思想のもとにいる。そのスタートラインは以下の通りである。

私は自ら望んで生まれてきた訳ではないし、漠然とした不幸感を日々感じたまま生きているものである。

ちょっとした不幸なことや、よくないことが起こった時に「死んでしまいたい」「消えてしまいたい」のようなことを考えたことがある人は少数ではないだろう。 私はこうしたことを慢性的に考えるような生活をしていた。「死んでしまいたい」「消えてしまいたい」と考える時に、ただでさえ(少なくともそう考える程度には)マイナスな状態にある中で、「自殺」というさらにマイナスな行為によってそれを解決しようとするのはあまりにも馬鹿げていないか、それなら「生まれてこないほうが幸福である」と言えるのではないか、というのがこの発想のスタートラインと言える。

確かに日々生活する中で、友人と話をしたり、美味しいご飯を食べたり、刹那的に幸福感を得られる瞬間があることは否定しない。しかし幸福感を感じることができる瞬間は大抵「ハレ」の瞬間であり、「ケ」の日常において慢性的に不幸感を感じている自分の現状を鑑みた時に、「生まれてこないほうがよかった」という発想に至るのである。

人生は不幸なものである、だから私は少しでもこの人生がマシなものに(=より幸福なものに)なるように努力しなくてはならない、と考えてはいるが、それはまた別の話。

子供は、一個人であり、他人である。親の子供を作るという行為の責任を、実際に履行するのは子供である。

先の主張と地続きの発想ではあるが、私は自ら生まれたい、と考えて生まれてきた訳ではない。両親の性行為の結果として生まれてきたに過ぎず、そこに私の選択が介入する余地はない。 生まれてきてしまった以上、私は自らの人生において選択を繰り返す必要性に迫られる。この必要性は私の責任に依るものではないはずである。両親が子供を作るという選択をしなければ、私にこの責任が発生するはずがない。

子供が生まれてシステム的に最も幸福なのは、国家ではないか。

そもそも国家というシステムが、国民が出産を繰り返す前提で成り立っているのではないかと感じている。日本を例に考えた時に、「超高齢化社会化」が問題視されている。少子高齢化が叫ばれ、年金のシステムも悲観視され始めている。

感情論では、子供が生まれて嬉しいのは親や祖父母、家族や親戚だろう、と考えられるかもしれない。しかし、国というシステムで考えるとこれは次世代、次々世代と国が存続していくことを前提に成り立っているように思う。この前提では、国家が子供を産むことを推奨するのも当然であり、様々な施策が打たれるのもまた当然なのである。

そうした社会の中で、あたかも子供が生まれることは幸福なことなのであるという刷り込み(あえてそう表現するが)に支配されている人間は少なくないはずではないか。

残念ながら私は国家の成り立ちや仕組みについては全くの無知であり、この論点が必ずしも正しいかどうかは不明であるが、少なくとも現段階ではこのように考えているということだ。

仮に自分が子供を作った時に、自分はその子供に対して子供を作った理由を自分が納得できる言葉で説明できない。

最後は感情論になってしまうが、題の通りである。もし自分に子供ができて「どうして僕/私を産んだの?(産んでくれなければよかったのに)」などと質問された時に、それに対して誠実な回答を用意できない、と考えた。

この子を不幸にしたい、と思って子供を産む親は基本的にはいないはずだ。誰もがこの子は幸福になってほしい、と思いながら子供を産んでいる。 この時に生まれてきた子供が身体障碍者になってしまったり、事故にあってしまったり、そうした要因を考える人間がどれほどいるのかを私は知らない。本当に子供のことを考えているのであれば、その子供を本当に産む必要があるのかを考えるべきなのではないか、と思うということなのである。

ここまで読んで頂いたらご理解いただけると思うが、私は「生まれてきたかもしれない子供のことを考えるのであれば、子供を産まない選択をすることが一番子供のためである」と考えている、ということなのである。 発想のスタートラインとしてはごく個人的な内容であるから、この段階で「これが反出生主義です」という顔をするつもりは一切なくあくまで発想のスタートがこれだ、ということだ(主義というからには全人類に対してapplyできる議論に終着したい)。

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デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-1 - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-2 - 週一で読書

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうがよかった -存在してしまうことの害悪』②-3 - 週一で読書

出典・参考

サン=テグジュペリ『星の王子さま』

本記事は、ネタバレには一切配慮しておりません。あらかじめご了承ください。


目次

  1. サン=テグジュペリについて
  2. 『星の王子さま』について
  3. 感想
  4. おわりに
  5. 出典・参考

サン=テグジュペリについて

1900~1944(44歳没)。フランスの作家、操縦士。名門貴族の子として生まれ、兵役で航空隊に入る。1926年、26歳から作家としての活動を開始。『南方郵便機』『夜間飛行』など、自身の航空士としての経験を背景とした作品を多く残す。

アメリカ亡命などを経た後の第二次世界大戦時、偵察隊の隊員として出撃。最期は地中海上空で行方不明となった。


星の王子さま』について

1943年4月、アメリカで出版。1935年に自身がサハラ砂漠に不時着した経験が反映されている。作者本人の挿絵が印象的である。 第二次世界大戦の期間の只中に出版された作品で、出撃して行方不明となる1年前に出版された作品。

童話として扱われるが、取り上げているテーマはむしろ大人向けである、と評されることが多い。

あらすじ

飛行機の操縦士である"ぼく"がサハラ砂漠に不時着し、そこで出会った"王子さま"と話をする。王子さまは、他の星から地球にやってきたというのだ。彼はぼくに、それまでに訪れた数々の星の話をする...。


感想

内藤濯による訳書を読んだ。多少は昔の言葉遣いがあるものの、全体に読みやすい文章だった。また、サン=テグジュペリ本人が書いたイラストが非常に可愛らしく、ストーリーやキャラクターをイメージする大きな助けになった。

星の王子さま』を読んで私が感じたことは大きく2点ある。

  • 異常にも映るおとなたちの描写
  • 大切なものは心で見る

以上2点である。一つずつ取り上げて考えていく。

異常にも映るおとなたちの描写

星の王子さま』は、終始一貫して「おとなになってしまった人間たち」へ語りかける内容だったように思う。冒頭のレオン・ウェルト氏への文章を一部引用する。

〜そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、〜

〜。おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)

本作中には、いかにも異常で、こっけいに見えるおとなたちが登場する。王さま、うぬぼれ男、呑み助、実業屋だ。現代社会で大切とされていること(権力、名声、酒、金)を、あえて極端な描き方をすることで読み手に疑問を持たせ、またそうした世の中へ警鐘を鳴らす意図があるのだと推察した。が、実際にサン=テグジュペリにとって、おとなたちはそのように見えていたのかもしれないと思うと、どこか他人事に考えてしまっている呑気な自分自身に嫌気がさしてくる。

さて、こっけいに見えないひととして、"点燈夫"が挙げられている。(〜。でも、ぼくにこっけいに見えないひとといったら、あのひときりだ。)これは実際に世界を明るくしている(=具体的に影響を与えている)仕事であるから、きれいな仕事であり、本当に役にたつ仕事と評しているのだろう。部屋や自分の世界に閉じこもるのではなく、実際に外の世界に影響を与えているのである。

地理学者についての言及は少ない。はじめこそ「そりゃおもしろいなあ、ほんとうに。そんなのが、ほんとうの仕事ですよ」と評してはいるものの、直後から王子さまをがっかりさせるような描写が続いている。地理学者が自らの仕事を"とても大切な仕事"と評していて(実業家らも自らの仕事をだいじな仕事と評している)、点燈夫と対照的にずっとひっこんでるきりの仕事である点から、決して印象は良くなかったと推察する。また、地理学者の住んでいる星は非常に堂々としていたにも関わらず、当の地理学者自身はそれを取るに足らない扱いをしていた(地理学者にも関わらず!)。この点からも、「大切なものを見ようとしないおとな」像が強くイメージさせられた。

サン=テグジュペリ航空士だったことで少なからず地理学とは縁があり、また実際に自らの生活の中で役に立った事実もある(なるほど、地理は、たいそうぼくの役にたちました。)。その点、地理学者は一口に異常に映る人間として記述するものではなかったのかもしれない(中には心が豊かな地理学者の友人がいたかもしれない)。しかし、地理学という知識を通してたくさんのえらい人たち=おとなたちとお近づきになったことは、この作品の基準では決して良いことではなく、"ぼく"を「心で大切なものを見る」ということから遠ざけたひとつの要因になってしまったのかもしれない、と考えた。

サン=テグジュペリ自身、幼い頃から空を飛ぶことへの熱意を抱えていたという。しかし第二次世界大戦の最中「美しいもの」を見るための飛行の実現は難しく、理想と現実の乖離に苦しんだのではないだろうか。

大切なものは心で見る

星の王子さま』が出版されたのは1943年、サン=テグジュペリが43歳のことで、1935年(35歳)に自身がサハラ砂漠に不時着した時の経験を下敷きにした作品とされている。

ものわかりの良さそうなおとなに、幼い頃に書いたウワバミの絵をおとなに見せる様子が冒頭に書かれている。このように"ぼく"が子供であろうとしている(=大切なことを心で見ようとしている)様子が描かれている。しかし同時に、王子さまとの会話で苛立ちを見せるなど、"おとなたち"に適応する事を覚え、感化され始めている様子も描かれている。

サン=テグジュペリが"ぼく"と自分自身を重ねて描いていたとすれば、心で見ることの大切さを自覚しながらも、社会や環境、時代のなかでそれが出来なくなっていく自分自身を自覚していたのではないか。世に問いかける作品としては勿論だが、理想から遠ざかっている事への自戒も込められていたのではないだろうか。

出版されたのは第二次世界大戦の只中のことであり、社会情勢は極めて厳しい状態にあっただろう。親友であったレオン・ウェルトもユダヤ人として迫害を受けていた。 「死」や「美しくないもの」が手に取れる形として存在していた時代でこそ、サン=テグジュペリは大切なものを心で見よう、と呼びかけたかったのではないだろうか。

「大切なもの」ってなに?

再三再四「大切なもの」という言葉を上げてきたものの、具体的にそれが何か、という議論をここまで先送りにしてきた。私は、この作品における「大切なもの」は「」と「豊かな感受性を持つこと」だと感じた。王子さまとキツネやバラとの会話、また王子さまと"ぼく"との会話は、(「友愛」を包含した)愛についての議論と受け取れるように思う。そして美しいものを美しいと感じ、豊かな想像力を働かせる「感受性」を持つという視点こそが、サン=テグジュペリが本当に大切だと伝えたかったことではないだろうか。

私自身22歳になり、大人と呼ばれる年に近づいてきた(あるいは、既に大人と呼ばれる年齢かもしれない)。金や名声、権力がチラつき始める中で、美しいものを「美しい」と思える心をいつまでも持ち続けたいものである。

おわりに

実は今までこの本を通して読んだことがなく、第二外国語に仏語を選択したことをきっかけに読み始めた程度だった。しかし、作品として面白かっただけでなく、いつの時代にも受け入れられる下地のある作品だとわかり、読んでいて気付きも多かった。 2020年4月現在、COVID-19の影響で実に息苦しい社会になっている。政治に対する不満、著名人の死、イベントの延期。辛いことが多い時期だからこそ、「愛」、そして自分の「感受性」と向き合って生きていきたいと強く思うところである。

出典・参考

理系出身に有るまじきWikipedia参考ですが仕方なし。代替を見つけるまで。


最後までご覧いただきありがとうございました。本文章は私個人の感想です。もしよければ、あなたの視点や考え方、感想をコメントでお教えいただければ幸いです。

私が感想の中で大切である、として取り上げた「感受性」について、茨木のり子の『自分の感受性くらい』という詩があります。有名な詩ではありますが、私が大好きな詩でもあるので名前だけ紹介させて頂くこととします。

4月に読む予定の本

効果的な読書を習慣化するために、はてブで詳細な記録を残していこうと思う。なお、簡易な記録については読書メーターにて記録する。

目次

  1. 記録のルール
  2. 2020年4月に読む予定の本
  3. 2020年4月に読みたい本
  4. おわりに

記録のルール

  1. この記録は、効果的な読書を習慣化することを目的とする。
  2. ここでは「効果的な読書」を「内容、あるいは概要を理解した上で、その書籍に対して自らの意見、認識を言語化可能であること」と定義する。
  3. 週に一冊の読了を目標とするが、「効果的な読書」を達成している範囲においてそれ以上の冊数を読むことを良しとする。
  4. 難解な書籍に関しては、複数記事に分割して記録しても良いこととする。
  5. はてブは原則として読了日から一週間以内に記録する。ただし、難解な書籍に関してはルール4の都合例外を認めるものとする。
  6. 記録は原則として毎週日曜日と設定するが、ルール4の都合必ずしもこれを満たさなくても良いこととする。
  7. 毎月初め、当記事のような計画を立てるものとする。計画の範囲において、週に1冊未満の読了となっても良いこととする。
  8. 以下に列挙する「読む予定の本」については、必ず読了する。
  9. 以下に列挙する「読みたい本」については、余力があった場合に読了する。ただし、この時「効果的な読書」であることを意識する。
  10. 漫然と読み流した書籍について、はてブでは扱わず、読書メーターでのみ記録されるものとする。

2020年4月に読む予定の本

赤と黒(上) (新潮文庫)

赤と黒(上) (新潮文庫)

赤と黒(下) (新潮文庫)

赤と黒(下) (新潮文庫)

2020年4月に読みたい本

草枕 (新潮文庫)

草枕 (新潮文庫)

おわりに

外出自粛が騒がれ、娯楽が世の中からどんどんと消えゆく辛いシーズンになってしまいました。新生活も始まる中で、自分にとって大きな娯楽として常に存在してきた「読書」のあり方を改めて見直したく、はてブを開設した次第です。 1冊目の記録を明日(4/5)アップロードする予定なので、よければご覧いただきたく思います。